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 空の魔法 84 みんな一人



 絵麻が檜家のダイニングでご馳走になるのは、これが初めてだった。 最上階にあるオーナー一族の住まいは、各家族が自由に設計したため、すべて異なったデザインになっている。 この檜家では、リビング・ダイニング・キッチンの仕切りがすべて可動式で、好きなようにつないで使うことができた。
 初美は大きな寸胴鍋を使ってカレーを作っていた。 カレールーの箱に書いてある作り方のとおりにやったらしく、出来上がりが写真にそっくりだ。 絵麻はそんな叔母を、むしろ偉いと思った。 下から取り寄せれば、おいしい料理はいくらでも配達してもらえるのに、初美は毎日手作りに取り組んでいるらしい。 広いキッチンは大きなゴミ箱や野菜入れが並んでいて、使用感ありありだった。
 絵麻が炊きたてのご飯を舟の形をした型に詰めて大皿に盛る役目を引き受けている間に、初美はカツをチンして福神漬けとらっきょうを出してきた。 絵麻は昼間の絶望感から解放されて、心からの笑顔になっていた。
「文哉ちゃん風邪よくなってよかったですね」
「ええ、二時ごろからお腹がすいたって。 だからおかゆを食べさせたんだけど、ぜんぜん足りなくて」
 文哉ちゃんはもともとは元気でよく食べる体質なんだ──絵麻はふと、初美が可愛がるあまり、朝すこし咳をしたぐらいで風邪だと思い込んだのではないかと疑った。 いかにも心配性な初美だからだ。
「文哉ちゃん弱いと思われてたけど、実は強い子なのかもしれないなあ」
 何といっても、穂高と蔵人の陰湿ないじめに耐えて、ここまで生き延びてきたのだから。 そう感じた絵麻が率直に口に出すと、カレーを慎重に皿にかけていた初美の手が止まった。 そして、ぽつりと言った。
「きっと大伴〔おおとも〕さんに似てるのね」
 しんみりした言い方だった。 恋をしている絵麻には、すぐピンと来るような。
「え?」
 小声で、いくらか誘うように訊き返すと、初美はすぐ乗ってきた。
「あの子のほんとの父親」


 絵麻は黙ってコップを並べ、ウォータークーラーから水を注いだ。 こういうときは下手に相槌を打たないほうがいい。 なぜか友達によく打ち明け話をされるため、絵麻は心得ていた。
 ゆっくりとカレーを分け入れながら、初美は堰を切ったように話し始めた。
「お兄さんの友達でね、ずっと好きだったの。 でも言えなくて、うちへ遊びに来るとつんつんしてたわ。 そのうち父が気づいて、話をまとめ出したの、強引に。
 彼に悪いと思った。 とてもよくしてくれたから、よけいに。 それで、喧嘩を仕掛けるような形になって、さすがの彼も怒って、志願してカナダへ転勤しちゃったの。
 向こうで電撃結婚してね。 本当に好きな人ができたのね。 式の後で子供ができたってわかったんだけど、手放す気になれなかった。 大伴さんの子なんだもの」
 絵麻の手が震えて、水をこぼしかけた。 同じパターンだ。 泰河のときとほぼ同じ! 子供の正式な父親を求めているお嬢さん育ちの未婚の母を見つけて、たぶらかして家に入り込んだんだ。
 蔵人のやりくちは、カッコウの逆だった。 卵を他所の巣に産んで育てさせるのではなく、自分が親になって巣を乗っ取るのだ。
 気がつくと、初美は布巾の端で涙をぬぐっていた。 絵麻と目が合って、彼女は気弱そうに微笑んだ。
「十七のお嬢さんに打ち明けることじゃないわね。 ごめんなさい。 絵麻ちゃんがあんまり頼もしいから、聞いてほしくなっちゃった」
 ここにも孤独にずっと悩んできた人がいる。 絵麻は初美の手首にそっと手を置いた後、不意に胸にあふれるものを感じて、腕を広げて抱きしめた。
「だから文哉ちゃん、あんなにいい子なんだ」
 嗚咽をこらえて、初美はうなずいた。 父親が亡くなった後、一人で背負っていた重荷を下ろして、心が静まったようだった。
「兄さんは知らないの。 でももう、話してくれていいのよ」
「よく考えてみます。 私の勝手で話せることじゃないから」
 絵麻はそう答えるしかなかった。 泰河の秘密と連動しているからだ。 そっと体を離すと、初美がささやくように言った。
「ありがとう」


 カレーの夕食は、予想よりずっと明るいものになった。 文哉は好きな人三人に囲まれて、食べたり見回したり話したり、大忙しだった。 でも動作すべてがおっとりしていて上品だ。 私もこんな子がほしいな、でも泰河の子ならきっと、元気一杯でちっともじっとしてないやんちゃ坊主なんだろうな──先のことまで考えると、自然に口元がゆるんで、絵麻は泰河から変な目で見られた。
「なに一人でにやついてるん?」
「いや〜、弟がいるのもいいなあと思って」
「これからも食べに来ない?」
 初美が泰河に勇気を奮って訊いたが、すぐにへたれた。
「お寿司かピザ取るから」
 泰河が渋い笑顔になった。
「いや、頼めるなら手料理のほうがいいな。 肉が多くて、穂高のカレーよりずっとうまかった」
 言葉のとおり、彼は大盛りでお代わりしていた。







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