表紙

 空の魔法 83 縁を繋いで



 社長は怖い、と泰河がよく言っていたのを、絵麻は思い出した。 昇に抑圧されたマグマのような恐ろしさがあるのを、泰河は前から感じ取っていたのかもしれない。
 文哉に聞かれないように、うんと声を落として、絵麻はささやいた。
「こうなると、お父さんが蔵人おじさんをやっつけなかったのが不思議」
「オレもそう思う。 でもそろそろ限界だったんじゃないか?」
 泰河も息だけでささやき返した。
「ほら、気味の悪い悲鳴を録音して流してただろう? あれ、護身用だったんだ。 いつも持ち歩いてて、何かされたらボタンを押すよって社長を脅したらしい」
「そうか。 とっさに叫べないとき用に」
「うん。 せこいけど、意外に効き目あるかもな。 ここでやったときは大騒ぎだったもんな」」
「下の人に警察呼ばれちゃったよね」
 今になって思うと、あの不気味な叫びが全ての前触れだった。 平和な暮らしに突然入り込んできた非日常。 あれから、陰に隠れていたゆがみが、じくじくと吹き出してきた。 まるで膿のように。


 リビングの飾り棚に置かれたからくり時計が、花びらのように真ん中から割れて回りながら、澄んだ音で午後七時を告げた。
 すると、カーペットに座って遊んでいた文哉がきちんと座りなおして、ラキューのピースを分解してケースにしまい出した。 その様子を見て、絵麻も泰河の膝から降りた。
「文哉ちゃん遊びの時間が終わったみたい。 きっとこれから晩ご飯なんだ」
「そうか」
 泰河は低く言い、自分も席を立った。 とたんに文哉も立ち上がって、訴えるように兄を見上げた。
「お兄ちゃんも食べる? ね、一緒に食べて」
 泰河の顔が、一瞬くしゃくしゃになった。 隙間があいていたリビングのドアがそっと開き、初美が入ってきて、ぎこちなく文哉に話しかけた。
「お兄ちゃんうれしくないわよ。 お母さんお料理下手だもの」
 すっと泰河は顔を背け、黙って出ていこうとした。 その手首を、絵麻は急いで掴んだ。
「叔母さん、変に謙遜しちゃだめですよ。 さっきからカレーの匂いがしてるんだけど、泰河はカレー大好きだから。 ご飯が足りないなら、うちから持ってきますよ」
 ここでまた気まずくなってしまったら、泰河は思うように文哉と会えない。 それに初美もこれからずっと、泰河に負い目を感じながら小さくなって生きていかなければならなくなる。 絵麻は懸命に笑顔を作って、みじめな表情をしている初美を励まそうとした。
 泰河は足を止めていた。 初美はもじもじしたあげく、やっと次の言葉を絞り出した。
「ご飯はあるの。 ちょっと炊きすぎちゃって。 カレーも……二回分作って冷凍しとくから」
 絵麻の笑顔が本物になった。 初美は本当は、泰河を招待したかったのだ。 でも自分からは言い出せなくて、いざとなるとおびえてしまったのだろう。
「わあ、いいなあ。 ね、文哉ちゃん?」
 見ると、文哉はもう泰河の傍に来て、安心しきったようにもたれかかっていた。
「お母さんのカレーおいしいよ。 もうたくさん食べてもいいんだ。 今日はカツカレーだって」
「カツはお店のだけど」
 初美がまだ自信なさそうだったので、絵麻は思わず背中を叩いてしまった。
「三つあります?」
 初美は下を向いた。
「冷凍で、十枚買ったの」
「オレもよく買いだめするな」
 部屋の壁に向かって、泰河が独り言のように言った。
「チャーハンとか、チンして食う」
「カレーとカツのほうがずっと手がかかってるし、野菜も多いよ。 食べるよね? 好きなんだし?」
 抵抗しない泰河を押し戻してから、絵麻は意気揚々と振り返った。
「叔母さん手伝います。 私がこの大食いさんを押し付けちゃったから」
「あの……絵麻ちゃんも一緒に食べてくれない? 人が多いほうが楽しいし」
 食べてくれない? と頼むところに、初美の苦しさが表れていた。 絵麻はすぐ決断して、電話を手に取った。
「お母さん? 晩御飯お隣で食べていい? 急に言って悪いけど。 うん、うん。 はい。 じゃね」
   







表紙 目次 文頭 前頁 次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送