表紙

 空の魔法 86 過去の清算



 翌日、学校から帰って着替えを済ませると、絵麻は母にことわって、すぐに隣の家に行った。 学校の鞄は前日に父が回収して、絵麻の部屋に入れておいてくれていた。
 チャイムを鳴らすと、ほとんど間を置かずに泰河から応答があった。
「お、まだ早いんじゃね?」
「うん、でももう帰ってる時間だと思って」
 火曜日、泰河の大学の講義は二コマ目までだった。
 祖父の気に入っていたどっしりした扉が開き、作業ズボン姿の泰河が顔を出した。 十一月だというのにシャツ一枚で、おまけに首にタオルを巻いていた。
「何やってたの?」
「模様替え。 荷造りで散らかしちゃったから、ちょうどいいと思って」
「手伝おっか」
 そう言いながら広々した玄関に首を突っ込んだ絵麻を、泰河はひょいと掴んで中に入れ、戸を閉めた。
「手伝わなくていいから、ビール出してきてや。 ノンアルコールのやつ」
「いいよ」
 廊下はきれいに片付いていた。 というより、何もなかった。 そういえば玄関の棚にも飾り一切置いていない。 ちゃんと掃除はしてあったが、スリッパ立て一つないので、二十五畳ぐらいある玄関がますますだだっ広く見えた。
「なーんにもない。 全部しまいこんじゃった?」
「ああ。 何か置いてあると掃除する気がなくなるんで。 どけるの面倒くさいだろ?」
「まあ、わかるけど」
 この分だと、自分の居住区にしている『欧州』もほとんど家具がないんだろう。 絵麻は可笑しくなった。


 祖父の時代には始終遊びに来ていたから、『欧州』にも詳しい。 絵麻は泰河の後について、しゃれたデザインの内玄関から入ると、まっすぐキッチンに向かった。
 ここの間取りはイギリス式で、台所と食堂があり、その横にバスタブとシャワーとトイレがまとまった洗面室がついていた。 短い廊下でつながる二つの寝室にもシャワー室とトイレつきだ。 絵麻はキッチンでクラシックな冷蔵庫を開けながら、奥にある巨大冷凍庫を連想して、鳥肌が立った。


 玄関と同じように、棚にほとんど何も並んでいない台所を出て、絵麻が優雅な居間に行くと、泰河がカーテンを掛け直していた。
「初美さんの家見て、こっちも冬用のカーテンにしなきゃって気が付いた」
「そうだよね。 薄いのだと寒々しい」
 そのカーテンは薄灰色の地味なものだった。 凝った雰囲気のリビングにはちょっと合わない。
「自分で買ったの?」
「うん、先代がどこにしまったかわからないし、探すのも面倒くさい」
「だよね」
 買いに行っただけ偉い、と絵麻は思った。 でも泰河は泰河なりにしっかりしていた。 カーテンのサイズはぴったりだったのだ。
「さてと、これで終わり! 冷えたビールいただき」
 絵麻は茶目っ気を出して、ビールマグを二つ持ってきていた。 ノンアルコールでも未成年はご遠慮くださいと書いてあるが、今日くらいはいいだろうと思った。
「ドライゼロはほんとにノンアルコールだよね?」
「うん」
「じゃ私も飲む。 乾杯しよ」
 冷凍の焼き鳥を見つけたので、レンジでチンしてきた。 横に並べると、肉好きな泰河は目を細めて喜んだ。
「すげー。 うちで飲むときはいつもビールだけだぜ。 贅沢してる気分になる。 じゃ、乾杯!」
「カンパーイ!」
 二人はマグを合わせ、絵麻は一口飲んで思わず顔をしかめた。
「う」
「こ〜のお嬢さんが。 ビールの味も知らんのか」
 泰河がからかう。 絵麻はすっぱい顔のまま、もう一口試してみた。
「これっておいしい?」
「慣れればな。 微妙な苦味とか、わかってくんだよ」
「は〜」
 絵麻はため息をつき、もう一口飲んだ。 口をつけたら最後まで食べなさい、と親にいつも言われている。
 そんな絵麻を、泰河はじっと見つめていた。 かわいくてたまらないという目つきだった。


 やがて来た目的を思い出して、絵麻は泰河にそっと訊いた。
「あの、泰河があんな人の子供じゃないって、初美さんやお父さんに話していい?」
 冷えた飲料をうまそうに飲み終わった泰河は、まっすぐな視線を彼女に向けた。
「いいよ。 ちょっとぐらいはオレの信用も上がるかもしんないし」
「そう、よかった」
 それから慎重に言い添えた。
「初美さんからも、いいって言われたんだ。 文哉ちゃんのお父さん、別の人だって話していいって」
 泰河は少しの間、じっとしていた。 これまで予想していなかったようだ。
 それから目を閉じて、大の字に腕を伸ばしてソファーに寄りかかった。
「なんてこった」
 きらきらした目が細く開き、絵麻の様子をうかがった。 それから胸に片手を当てると、泰河は感に堪えたようにつぶやいた。
「口固いよな〜、ほんとに。 女っておしゃべりだと思ってたが、絵麻は日本銀行の金庫並みだ」
 絵麻は嬉しくなってニヤついた。
「日本銀行に金庫あるの?」
「そりゃあるだろう。 見たことないが」








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