表紙

 空の魔法 79 因果は巡る



 絵麻は一瞬、文哉が空想ごっこでもしているのかと思った。 魔法の粉を飲めば天国へ行けると、子供らしく思い込んでいるのかも……。
 それから、いきなり棒で殴られたように我に返った。 父が笛に似た奇妙な音を発して前かがみになり、茶色の小瓶に手を伸ばしたからだ。
 だが文哉のほうが早く動いた。 ぱっと瓶を掴んで背後に隠し、絵麻にぎゅっと寄り添って、おびえた声を出した。
「だめ。 これに触っちゃだめなの」
 絵麻はとっさに手を伸ばして、父を押しとどめた。 文哉は繊細な子だ。 しかも今は風邪を引いて弱っている。 父にそんな気がなくても、おどかすような動作をしたら、恐怖で去年の虚弱児に戻ってしまうかもしれない。 やっと最近活気が出て、少しずつ体格もよくなってきたのに。
 絵麻は、自分を頼ってくれた文哉に微笑みかけ、さばさばした口調で言った。
「触らないよ〜。 それ文哉ちゃんのなんでしょ?」
 すると文哉は、ゆっくり横に首を振った。 同時に肩も揺れた。 その肩はかすかに震えていた。
「ううん、お父さんの」


 誰も驚かなかった。 この家に怪しげな物を持ち込むのは、いつも蔵人だった。
 絵麻は子供のつやつやしたまっすぐな髪を撫でた。 彼が心から愛おしかった。 たとえ何をしたにしても、文哉に罪はないのだ。 蔵人がわざわざ彼に話したにちがいない。 この薬を飲めば天国へ行くと。
 絵麻が叱らず、優しい目で頭を撫でてくれたことで、文哉は打ち明ける力を取り戻した。 ずっと話したかったのに、怖くてどうしても口に出来なかったことを、遂に話せる相手を見つけたのだ。
「お父さん、子供なんてじゃまだって言ってた。 だから僕のことだと思ったの。 でも、そうじゃないって。 じゃまなのは泰河だって。 この瓶からおさじ一杯で天国へ行かせてやるって言ったの」
 絵麻の顎が凍りつき、うまく動かなくなった。 蔵人は小さな息子の前で、殺人計画を自慢したんだ……!
「僕が見てたら、おまえにはやらないよって言った。 まだ早いって」
 小さな指が、アイランドキッチンの上に張り出した戸棚を指差した。
「あの中に隠したの。 でも鍵かけなかった。 だから上に乗って、見つけたんだ」
 我慢できずに、絵麻は文哉を抱きしめた。 なんて賢い子なんだろう! まだ幼稚園に行っている年頃だったのに、彼は兄の命を救った……!
 文哉はいやがらなかった。 むしろ嬉しげに絵麻の腕に頬を沿わせて、あやされるままにしていた。
「それで別のところに隠したのね? えらいねえ」
 絵麻が湿った声で言うと、文哉は目を開けた。 そしていきなり身を起こし、うつむいた。
「えらくないよ」
 それまで立ちすくんでいた初美が、喉を絞められたような声を漏らした。 文哉は母を見上げてべそをかいた顔になり、小声で謝りはじめた。
「ごめんなさい。 勝手に棚のところに上がってごめんなさい。 あそこにお菓子が入ってたの。 穂高さんのお菓子。 おなか痛くなったとき、もらってたの。 一枚だけ」
 絵麻は、文哉の腹痛の原因にすぐ気づいて、飛び上がりそうになった。 中学生で食べ盛りの頃、友達は二時間目ぐらいにこっそり間食して飢えをしのいでいたが、しつけのいい絵麻はお弁当の時間まできちんと待った。 そのせいで空腹のあまり、何度か腹痛を起こしたことがあった。
「穂高さん文哉ちゃんにちゃんと食べさせてくれなかったの?」
 絵麻が叫ぶと、初美がまた異様な声で呻いた。 文哉はすっかりおどおどして、なんと穂高のために言い訳を始めた。
「ミルクはくれたよ。 冷蔵庫にいつも入ってた」
「冷蔵庫って…… あの冷血女……!」
 さすがに昇もあきれて、顔をそむけた。 前に一度だけ、文哉が空腹に耐えかねて助けを求めてきたのを、絵麻は思い出し、胸がひどく痛んだ。
 女、という言い方で、自分が怒られているのではないとわかったらしく、文哉は少し元気を取り戻して話し続けた。
「お兄ちゃんはいろんなものくれた。 ドーナツとかカツサンドとか。 でも早く食べないと、穂高さんが見つけて捨てちゃう。 僕みたいに弱い子は、誰もほしがらないって。 どうせ早く死ぬんだから、食べてもむだだって」
 ふうっと息をつくと、少年は当たり前のことのように、普通に続けた。
「お兄ちゃんは強いよ。 僕は弱いでしょう? だから、僕が天国に行こうと思ったの」


 絵麻は少年を見つめ、続いて薬瓶に目を投じた。
「あの……瓶からお薬出した?」
 文哉は頷いた。
「おさじでちゃんと入れたよ。 ミルクに一杯だけ」
 ドタンと大きな音がした。 初美がリビングの床に膝をついた音だった。
 初美は絵麻から奪い取るように文哉を引き寄せ、夢中で揺さぶった。
「だめよ! そんなことしないで! お母さん文哉が大事なんだから! 誰より文哉がかわいいんだから!」
「叔母さん」
 あまりの剣幕に、絵麻は初美の肩を掴んで半ば強引に動きを止めさせた。
「文哉ちゃん今はわかってる。 叔母さんが大事にしてくれるって、ちゃんと知ってるから。
 叔母さん、今度二人して穂高さんに会いに行かない? 呼び出してやっつけちゃおう。 ね? そうしましょう」
「お父さんが先に一発かましてやるよ」
 昇が陰にこもった声で唸った。
 少年は激高している大人たちを順番に見回して、頬を紅潮させた。 皆が自分の味方になってくれたとわかった子供の、幸せな表情だった。
「お父さんも、意地悪したんだよ。 帰ってきて、僕のミルク飲んじゃったの。 だめって言ったんだけど飲んじゃった。 もうミルクなかったのに」
 絵麻の全身から力が抜けた。
「意地悪で……。 そうなんだ、こんな小さな息子に意地悪して、残りのミルク全部飲んじゃったんだ」
 そして、自分があの世へ行った。
 天国へ? まさか! 地獄にきまってる!








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