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 空の魔法 78 子供の言葉



 それから昇は決然として初美の住居に向かい、インターホンを押した。 幸い、初美は家にいて、すぐ出た。
「兄さん? どうしたの、こんな昼間に?」
 昇はインターホンに口をつけるようにして、低く頼んだ。
「入れてくれないか? 緊急事態なんだ」
 あまり間を置かずに玄関が開いた。 だが、ラウンジで絵麻が泰河に膝枕しているのを見つけて、初美はたじたじと退いた。
「いやだ兄さん。 今日は文哉がうちにいるのよ。 昨日から風邪ぎみで、さっき小杉先生に来ていただいたところ」
 小杉とは親子二代にわたって夏瀬家の主治医をしている開業医で、頼めばいつでも往診に来てくれるのだ。 それを聞いて、昇はじれったそうに首を振った。
「じゃ自分の部屋で寝てるんだろう? 邪魔はしないよ。 ともかく俺たちを入れてくれ。 さもないとまずいことになるぞ」
 兄妹は視線を合わせた。 火花が散りそうな瞬間だった。 だが結局いつものように初美が折れ、唇を噛みながら道を開けた。


 初美がしぶしぶ通したリビングは、絵麻が最後に訪れた半月前より、いっそう温かい雰囲気になっていた。 ソファーにはポケモンのクッションが加わり、絵本が数冊テーブルに散らばっている。 前はモデルハウスのようだった冷たい室内が、今は血の通った家庭に変身していた。
「泰河君どこか痛めたの?」
 心配そうな絵麻に気を配ったのか、初美は君をつけて義理の息子を呼んだ。 その間も、昇と絵麻は汗をかきながら泰河を運び、どうにかソファーに横たえた。 絵麻が膝をついて、体の下に挟まった泰河の腕を引き出し、やさしく置きなおしているところを見ながら、昇は妙にはっきりと答えた。
「俺が睡眠薬を飲ませたんだ。 屋上から落ちて死んでくれればと思った」
「兄さん!」
 初美は血の気を失って、短く息をついた。 居たたまれない様子だった。 
「何もそこまで……」
「絵麻と駆け落ちしようとしてたんだぞ!」
 昇は声を荒げたが、大きくはせず、押さえつけるような調子でしゃべり続けた。
「二人分の切符を何種類も予約していた。 頭のいいやつだ。 どこへ逃げるかわからないようにするつもりだったんだ」
 ちがう、どこにも行かないつもりだったの──心の中だけで、絵麻は呟いた。
 初美はいよいよ途方にくれて、兄と姪を交互に見た。
「これからどうするの? こんなことして泰河君許してくれる?」
「許さなくても、警察へ突き出すと言ったら黙るしかないだろう」
「でも……それじゃ私たちはどうなるの? 泰河君の目が覚めるまで、ここにずっといるの? そんなの嫌よ!」
 そろそろ初美の声が裏返りかけた。 子供時代は我がままで、望みが通らないとすぐシクシク泣き出したという叔母だ。 ここでもまた泣くんだろうか。 耳をふさぎたい気分で、絵麻が泰河の襟元を直していると、小さな音がして奥の部屋に通じるドアが開き、文哉の頭が覗いた。
 絵麻はぎょっとなった。 とっさに自分の体で泰河を隠そうとしたが、それより早く文哉は兄を見つけ、ぱっと顔を輝かせた。
「お兄ちゃん!」
 そしてパジャマ姿のまま走ってくると、横たわった泰河に抱きついた。
 その腕が、硬直したように止まった。 そしてゆっくり泰河を離れ、背中の後ろに回った。 恐れに満ちた声が、静まり返った部屋に弱く響いた。
「冷たい…… お兄ちゃん天国へ行っちゃった?」
 驚いて、絵麻は震えだした少年の肩を抱いた。
「そんなことないよ。 お兄ちゃんあったかいよ。 外は風吹いてたから、服が冷たくなっただけ。 ほら、顔にさわってみて」
 小さな手を取って、引っ張るようにして泰河の顔に触れさせた。 はじめ怖がっていた文哉は、体温を感じ取ると体の力を抜き、そうっと泰河の頬を撫でて、ぎこちない笑顔に変わった。
「お兄ちゃん天国に行かないよね。 そんなことないよね。 だって」
 突然立ち上がってすたすた歩き出した文哉を、大人たちは良心の呵責に苦しみながら目で追った。 絵麻は二人とは逆に、文哉の素直さと優しさに胸を打たれる思いで、無意識に泰河を守る形で半ば覆いかぶさっていた。
 文哉はそのままリビングを横切り、アイランドキッチンの前にかがみこんで何かしていた。 子供のことだから、もう気が変わって遊び出したようだ。 お医者のおかげで風邪はずいぶんよくなったのだろう。 そう考えて絵麻が泰河に注意を向けなおしたとき、文哉がピョンと立ち上がり、ソファーのほうへ戻ってきた。
 子供は、手に小さなガラス瓶を持っていた。 その茶色の小瓶を、彼は絵麻の近くの床に置き、心配そうに尋ねた。
「減ってないよ。 だから大丈夫だよね? お兄ちゃん天国に行かないね?」







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