表紙

 空の魔法 74 嫌われる訳



 泰河を連れ帰って、絵麻はずいぶん平常心を取り戻した。 背後のビルには人だかりができている。 今は雷が落ちた話でもちきりだが、誰かが視線を移して前の屋上を眺め、余計なことに気づくかもしれない。
 それで絵麻は、すばやく一輪車の向きを変え、植え込みの陰に押していった。 今度は別の心配で胸がどきどきした。 泰河は覆いの下で身動き一つしない。 ちゃんと息をしているのだろうか。
 しゃれたベンチに車をもたせかけるようにして、おそるおそる覆いを引っ張った。 すると、ちぢこまった形で横向きに丸まっている泰河が見えた。 普段着のカーゴパンツとジャンパーを着ていて、シャツの襟元が汚れていた。
「睡眠薬のせいだ」
 父の声が地を這うように聞こえた。
「体内で水と炭酸ガスに分解されて、解剖でも検出できないってやつだよ。 前に蔵人がくれたんだ」
 分厚いレインコートに身を包んだまま、昇は向かい合ったベンチに腰を下ろし、背もたれに寄りかかって天を仰いだ。
「六時間以上は寝てる。 だから明るいうちに屋上の縁に置いておけば、暗くなって目が覚めて起き上がる」
 絵麻は改めて、怒りにうめいた。
「そのときバランスを崩して落ちるようにしとくのね」
「そうだ」
 昇は悪びれずに認めた。 簡単だがうまいやり方だ。 泰河が目ざめる時間帯に、昇はここにいる必要がない。 鉄壁のアリバイを作れるわけだ。


 これからどうしたらいいのか、絵麻には考えられなかった。 ただ泰河を助けたことだけでエネルギーを使い果たして、ハンカチでひたすら泰河の口元を拭いていると、父が尋ねた。
「なんでここへ来た? 学校にいる時間だろう?」
 その言葉に、絵麻は一瞬きょとんとした。 それから思い出した。
「急に気持ちが悪くなったの。 たぶん風邪引いたんで、だから早引けしたんだけど」
 そういえば、吐き気が全然しない。 額に手をやるともう熱っぽさはなく、汗はにじんでいたが冷たいぐらいだった。 あのひどかった気分の悪さは、嘘のようになくなっていた。
「それで今は?」
 絵麻は口ごもった。
「……直った、みたい。 で、でも、仮病じゃないから」
 口がもつれた。 日ごろからサボリなんかしたことがないので、こんなときでも良心がとがめた。
 すると、昇はゆっくり息を吐き、音を立てて大きく吸った。
「呼んだんだろうなあ、泰河が」
 絵麻はごくりと唾を飲み込んだ。 首筋がスッと冷え、さっきとは違う悪寒が背筋を這った。
 空の一点を見据えたまま、昇は疲れきった声で続けた。
「絵麻がさっき突然、柵の向こうに現れたとき、あそこから落ちてきたのかと思った。 二度見返して、白昼夢かと目をこすりそうになったよ。 絶対にいるはずがないんだから。 鍵も念入りにかけたし」
「鍵はおじいちゃんがくれたの。 形見みたいで、ずっとキーホルダーにつけてて」
「そうか……」
 昇は低く笑い出した。 自分を嗤〔わら〕うしかないようだった。
「完全犯罪なんてありえないか。 それにしても……さっきの雷は何だったんだ? あんなものまで邪魔に入るとはな」
 絵麻は思わず涙声になった。
「お父さん。 どうして泰河をそんなに嫌うの?」
 昇は前かがみになり、ほとんど聞こえないほどの大きさで囁いた。
「それは、蔵人を殺したからだ」







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