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 空の魔法 73 閃光と雨と



 絵麻は一瞬立ちすくんだ。
 それから、いきなり柵に飛びついて激しく揺さぶり、咆哮した。 それはまさに、吠えたとしか言いようのない原始の叫び声だった。
「離して! 離せ〜! 泰河から離れろ〜!」
 レインフードで半ば陰になった昇の顔が青ざめた。 絵麻の声は澄んでいて、よく通る。 いくら広いビルの屋上でも、昼休みでのんびりしている近隣の耳に届きかねない叫びだった。
 しかし昇はあきらめなかった。 歯がきしるほど食いしばると、すばやく一輪車に戻って引き手を持ち上げた。 さすがに動揺していてブレーキを外すのを忘れたが、つんのめりかけて気づき、足で蹴ってから決然と進み出した。
 絵麻は体をくねらせ、もう言葉にならない悲鳴を上げた。 目の前で、実の父が恋人を突き落とそうとしているのに、止めることができない。 こんな残酷な現実があるだろうか。
 その瞬間、目の前が真っ白になった。
 意識を失いかけているのだろうか、と、絵麻はよろめきながら思った。 情け深い天使か神様が、この悪夢からほんの短い間だけ、目をそむけさせてくれるのだろうか。
 視野が突然なくなった反動で、絵麻は冷たいモルタルの上に膝をつきかけて、柵に額をぶつけた。 反射的に目を開くと、前が写真のようにくっきりと見えた。 一輪車は、ビルの端に止まっていた。その横には父がうずくまり、這うような奇妙な姿勢を取っていた。
 一瞬でそれだけ目に入れた直後、物凄い音がビルの間を駆け抜けた。 絵麻はまるで暴風のようにぶつかってきた巨大な音に圧倒されて、尻餅をついてしまった。
 それから、雨が降ってきた。 空には太陽が照っているのに、しきりと雨が落ちてきた。 『狐の嫁入り』だ。
 背後がざわざわと騒がしい。 絵麻が肩越しに振り向くと、隣接したビルのあちこちの窓に人が群がっていた。 みんな身を乗り出して、真ん中あたりの窓を見ている。 その窓だけには人の気配がなかった。 そして、ガラスが割れ、窓枠が廃墟のようにねじ曲がっていた。
 絵麻は柵を頼りに立ち上がった。 後ろのビルは謎だが、そんなことには構っていられなかった。 まだしとしとと俄か雨が降り続く中、絵麻は左に、右に走り回って、どうにかして防御柵から出る手段はないか、必死に探した。
 目の端で、父がよろよろと立ち上がる動きを捉えた。 絵麻は悲痛な呻きをもらした。 父が立ち直ったら、泰河は一瞬で突き落とされる。 もうだめだ……!
「そこを少し持ち上げろ」
 鈍い声が耳に入った。 絵麻は動きを止め、目を大きく見開いたまま、父を見た。
 昇も娘を見返した。 目が血走っていたが、先ほどの恐ろしい決意の色は、もうなかった。
 短く息を弾ませながら、絵麻は言われたとおりに柵を持ち、力を込めて上げた。 すると、意外なほど軽く、柵の一部が持ち上がって、するすると横に動き出した。 保守点検用に、秘密の開口部がついていたのだ。
 人が通れるぐらいの隙間ができたとたん、絵麻は体をこじ入れて外に出た。 そして、一直線に一輪車へ飛んで行き、安全な距離まで引き戻した。 重かったはずだか、あっという間にやってのけた。
 父はその間に秘密の出入り口を大きく開け、無言で待っていた。 絵麻はまったくふらつかず、走るようにして一輪車を押しながら通り抜けた。
 その間も隣の騒ぎはいっそう大きくなり、若い男たちの興奮した声が、絵麻たちのところまで聞こえてきた。
「すげーわ、写真撮れなくて残念!」
「誰か撮ってないかな。 ネット見ようぜ。 もう画像上げてるかも。 真横に落ちる雷なんて、これまで聞いたことない」







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