表紙

 空の魔法 72 白昼の悪夢



 絵麻は短い階段を上りきって、屋上に出る扉を押した。 しかし開かない。 鍵がかかっていた。
 こんなことは初めてだった。 屋上でいったい何が起きているのか。 絵麻は意地になって、上着のポケットに入れているキーホルダーを探り、つけてある屋上の鍵を探し出した。
 鍵はすぐ開いたが、扉はいつもの倍も重く感じられた。 だからかもしれないが、開けた手がすべってドアが独りでに戻り、勝手に閉じて鈍い音を立てた。
 上空はきれいに晴れていた。 ただ、風がほとんどないため大気はいくらかよどんでいて、光化学スモッグの気配があり、目が少しちくちくした。 絵麻はねっとりした空気の中に足を踏み出して、七階の出窓の上あたりを見回した。
 そこに、奇妙なものが見えた。 落下防止にぐるりと張り巡らされた柵の向こう側には、三メートルほどの余裕をとってある。 その細長い出っ張りの上に、人がいた。 この天気なのに、全身を覆うレインコートと防水ズボンを着込み、頭にはフードを深く下ろしている。 雨よけの透明ビニールが顔の前についているため、まったく人相はわからなかった。
 男か女かも定かでないその人間は、前かがみになって庭仕事用の一輪車を押していた。 その車にはこんもりと何かが載っていて、上には黒いビニールシートがすっぽりと被せられていた。 とても重そうだ。 土でも運んでいるのだろうか。 それにしても、なんで普通は作業員が食事休憩を取る正午過ぎなんかに……。
 車を押していた人間が絵麻に気づいた。 一輪車がバランスを失い、黒いシートがずれて中身の一部がずり落ちた。 それがズボンを穿いた人の脚だと見てとって、絵麻は反射的にかすれ声を漏らした。
「えっ? なに……?」
 一輪車の人間は歩みを止め、背中を曲げたまま動かなくなった。 だが、絵麻が柵に向かって駆けてくるのに気づいたとたん、やみくもに車を押して、なんと建物の縁に向かいはじめた。
「やめて!」
 恐ろしいことが目の前で起きようとしている。 レインコート人間が誰かを屋上から落とそうとしている! 普通なら怖くて逃げ出すところだが、間に二・五メートルある柵が立ちふさがっているので、絵麻は夢中で近くまで駆け寄って再び呼びかけた。
「やめて、今すぐやめて! やめないと警察呼ぶ」
 そして、右側のポケットから水色の携帯を引っ張り出し、一一○番を押した。 なぜか指は震えなかった。 悪夢を見ているような状況だが、あまりに現実離れしているため、恐怖心が追いついてこなかった。


 レインコート人間は立ち止まると、背筋を伸ばした。 それから、低い声で言った。
「電話を切れ」


 絵麻の指が、突然しびれた。 電話が手からはじきだされたように落ち、モルタル面に鈍い音を立てて転がった。
 悪夢はいまや絶望に変わろうとしていた。 絵麻が聞き取ったのは、まぎれもない父の昇の声だった。
「お父さん……」
 途方に暮れた絵麻の囁きが、無風の屋上に弱々しく響いた。
 昇は一輪車の足を立てて安定させ、ゆっくりと絵麻のほうへ戻ってきた。 そして、柵の向こうからかすれた声で言った。
「絵麻が選ぶ男なら、どんなのを連れてこようと、たいてい賛成しようと思った。 素子ともそう話していたんだ。 だが、こいつだけは駄目だ。 絶対に!」







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