表紙

 空の魔法 71 異様な不安



 私が出ていった後でも、お父さんにはお母さんがいる──それが絵麻には心の慰めだった。 絵麻は加奈親子の存在を一言も素子にもらしていなかったし、これからも話すつもりはなかった。 加奈が今後どうする気か知らないが、おそらく彼女も父親の名は口にしないだろうし、もう頼ってもこないだろう。 そんな予感がした。


 月曜日も、まったりした家の雰囲気は変わらなかった。 絵麻はいつも通りに父と一緒に階下へ降り、重役出勤の父を見送ってから駅に向かった。 今日の夕方には、やっと泰河と話せる。 実行力のある彼のことだ。 もう計画を完成して、逃亡先まで決めているかもしれない。 そう思うと、駅で電車を待っている間も、激しく運動した後のように鼓動が高まった。
 学校では、二時限と三時限の間の休み時間に、隣のクラスの宇津木という女子が顔を覗かせて、今日の部活は中止になったと知らせてきた。 絵麻はその知らせを聞いて複雑な気分になった。 部活を終えて電車に乗り、麻布十番駅で降りた後で泰河の電話を受ける予定だったのだ。 そうすれば、うちまで歩く間にじっくり話が聞けるのに。


 ひとつ予定がずれたことで、絵麻は急に不安になった。 絵麻が属している部はおやつ作りが主で、とても人気があり、ちょっとやそっとのことでは休みにならない。 前にやむなく休んだのは、工事で電気が切れてオーブンが使えなくなった日だけだった。 しかし今日は担当教師が子供の怪我で早退し、料理上手な部長まで風邪を引いて登校できなくて、食材を調達できなくなったという理由で中止に追い込まれたという。 不吉だ。


 妙なことに、波立つような心の不安は時間が経つにつれて静まるどころか、どんどん大きくなった。 四時限が終わったときには胸が苦しくなり、生まれて初めて過呼吸になったんじゃないかと思うほど息が浅くなって、軽い目まいまで感じはじめた。
 これはきっとインフルエンザだ、と絵麻は決めた。 咳はまだ出ないけど、他の人にうつしちゃまずい。 それで少しよろよろしながら階段を降り、職員室へ行って早退届を提出した。


 電車はすいていたが、胸がばくばくして座っていられなかった。 通学バッグのポケットにポリ袋が入っていたのを思い出し、探して手に握った。 吐き気がしたときの用心だった。
 幸い、冷たいドアのガラスに額をつけていると、胸やけは次第に収まった。 駅について開閉口が開いたとたんに飛ぶように降り、階段に急いだ。 うちへ帰りたい。 やみくもにそう思った。
 絵麻が青い顔で通り過ぎるのを見て、一階の商店街ではみな驚いた。 定食屋『鈴音』のスタッフなどは、店から出てきたぐらいだった。
「どうしたの、絵麻ちゃん? 顔真っ青だよ」
「ああ、ちょっと風邪ひいたみたいで」
「珍しいなあ。 絵麻ちゃんが病気になったの、小学校の遠足での食中毒以来だよね」
 昔からの知り合いなので、よく覚えている。 絵麻はなんとか微笑み返して通路を進み、専用エレベーターに乗った。
 七階でエレベーターを降り、歩き出したとたん、出窓式になっている強化ガラスの張り出しの向こうに、何かがちらっと動いた。 雨だろうか。 絵麻が歩きながら視線を向けた先で、また物が落ちていくのが見えた。 細かいが、雨ではない。 まだ十一月だから、もちろん雪のわけがない。
 屋上で何してるんだろう。 また妙な動悸がして、絵麻は胸を押さえた。 植木職人さんたちが来るのは十二月初めのはずだ。 そして掃除の人は一ヶ月に二回、水曜日か木曜日の晴れた日に仕事をするし、チームワークがいいのでゴミをこぼしたりしない。 まだ気分の悪い絵麻は一瞬迷ったが、とりあえずバッグを家の戸口に置いて、屋上を見に行くことにした。








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