表紙

 空の魔法 64 好きな相手



 さすがにナツセ・ビルの前に来たときは、泰河のほうからそっと手を離した。 でもそれまでは、幼稚園の庭でお遊戯をする幼児たちのように、しっかり手をつなぎあった上、ぶんぶん振っていたかもしれない。 二人とも幸せに夢中で、自分たちが何をしていたかよく覚えていなかった。
「泰河が卒業して就職したら、すぐ結婚しよ」
 絵麻が背伸びして囁きかけると、泰河はなんともいえない笑顔になって顔を下向け、低く囁き返した。
「絵麻の学校はどうすんだ?」
「行くよ。 学生結婚ってやつ。 いいじゃない?」
「そうだな」
 泰河はすぐ乗り気になった。
「でもぜったい反対されるぞ」
 絵麻の口が強情に引き結ばれた。
「たぶんね。 でも結婚するのは泰河しかいない。 お父さんが何言っても、それは変わらない」
 二人は明るいビルの前でうなずき合い、呼吸を整えてからいつものさっぱりした雰囲気に戻って、中に入っていった。


 家にはまだ母の姿はなかった。 宿題を終えて小腹がすいた絵麻がプリンを出してきて食べていると、やがて母が玄関を開ける音が聞こえ、おしゃれな外出着でリビングに入ってきた。
「あ、先に帰ってたね。 ちょっと引き止められちゃって」
「お母さんもプリン食べる?」
「そうねえ。 すぐ着替えてくる」
 母は本当に、あっという間にくつろげる格好になって絵麻の横に腰を下ろした。 母は久しぶりの華やかな催しに興奮ぎみで、ピアノの発表会についてどんどん話し始めたので、絵麻は自分がどこへ出かけていたのか嘘の言い訳を口にしないですみ、熱心に母の話に耳を傾けた。
「派手だったわよ〜、まるでプロのリサイタルみたいで。 まあ腕前はプロとはいえなかったけど、でも下手じゃなかった。 感心したわ」
「真奈美さんきれいだった?」
「大胆だった」
 そう言って、母は口をすぼめた。
「背中が全部出てるドレス着てた。 絵麻があんなの着たらショックだわ」
 板谷真奈美〔いたや まなみ〕は母の友達の子で、絵麻と同い年だ。 スタイルがよく、クローゼットがあふれるほど服を買い込んでいるという話だった。
「私は発表会なんてしないもの。 ドレスも着ない」
「でもね、スカートはすてきだったわよ。 オーガンディーで、ほら、いろんな色合いにちらちら光る生地で」
 そう言って、素子は夢見るような眼差しで天井を見上げた。
「絵麻もひとつドレス作らない? せっかく女の子を授かったんだから、シンデレラみたいなドレス着せてみたいわ〜」
 絵麻は苦笑して、冷蔵庫からもう一つプリンを出してきた。 太らない体質なのがうれしい。
「着ていくところがない」
「もうほんとに、醒めてるんだから」
 二人がふざけてポンポン叩き合っていると、また玄関が開き、父が入ってくる物音がした。 絵麻は緊張し、無意識に母の傍へ身を寄せた。
「ただいま」
 リビングを覗いた昇の顔は、いつもとまったく変わらなかった。
「おかえりなさい!」
 素子はすぐ立ち上がり、いそいそと夫についていった。 まるで昭和初期の妻のように、彼女は夫の着替えを手伝う。 結婚相手に尽くすというより、彼の傍にいて脱いだものを片付けながら話を交わすのが楽しいのだった。








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