表紙

 空の魔法 42 情熱に負け



 絵麻は目をつぶって、泰河の胸に顔を埋めた。 ほのかな洗剤の香りに混じって、彼の匂いがする。 この世の何よりも安心できる匂いだった。
 絵麻を強く体に押し付けたまま、泰河はささやいた。
「ずいぶん長かったな」
「十日だよ」
「でも去年よりずっと長く感じた」
「今年はしょっちゅう一緒にいるからね」
 まだ日中の暑さが残る風が吹き抜けて、二人の髪を巻き上げた。 いつもなら一分もすれば腕をほどいて顔を覗きこんだり、軽くデコピンしたりする泰河が、その夕方は強く抱きよせたまま動かない。 絵麻は次第に息苦しくなってきた。
「泰河」
 反応なし。 年齢のわりに分厚い胸から伝わる動悸は、早まる一方だった。
 これはまずい。 絵麻は本能で、相手が情熱に負けそうなのを悟った。 それでとっさに、押しつぶされそうな頭を強く動かして顔を上げ、静かに言った。
「やめて、泰河」


 どのくらいの時が過ぎたか。 絵麻にとって何分にも感じられたが、実際は数秒だったろう。
 泰河はゆっくりと力をゆるめ、二歩、三歩と後ずさりした。 それからいきなり向きを変え、一言も発せずにドアを引き開けて、姿を消した。


 その夜、泰河はバルコニーに出てこなかった。 三十分待った絵麻は、携帯にメールを入れて返事を待った。
 十時を回ってから、ようやく泰河からのメールが届いた。
『ごめん。 反省してる。 英語は来週は夏休みだから、八月一杯オレは休む。 明日の晩、バルコニーで会おう』


 しかし、何かが変わってしまった。 翌日の夜、泰河はいつもの時間に部屋から出てきたが、柵越しに絵麻の手を取ろうとはしなかった。 会話は何となくぎこちないものになり、おやすみ、と言って別れた後、絵麻はふと涙ぐみそうになって、そんな自分に驚いた。


 あのときは、ああするより仕方がなかった──絵麻は、一日に何度も自分にそう言い聞かせた。 大昔ではないのだから、十六、七で結婚するのは早すぎる。 かといって、体だけ結ばれて二人でこそこそするのは、もっと最悪だ。 父は彼を殺してしまうかもしれない。
 殺す、という単語が頭にひらめいた瞬間、ぞっと寒気がした。 虫の知らせというのが本当にあるなら、確かにそのとき、絵麻の心の奥にささやきかけたものがいた。 何者かはわからない。 だが邪悪な気配はずっと絵麻につきまとい、九月に入って新学期が始まってからも、ことあるごとに記憶によみがえってきた。







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