表紙

 空の魔法 38 過去の痛み



 泰河と絵麻は、結局電車に乗って家まで帰り、下の階で稲荷寿司と納豆巻きを食べた。
「もう納豆くさくなったって構わないからな」
 あくまでも庶民派の泰河は、昔母と一緒に食べた普通のご飯が好きだった。 絵麻はふと、泰河の生みの母のことが知りたくなった。
「お母さんの写真、持ってる?」
 泰河は黙ったまま、ジャケットの内ポケットからよれよれの薄い革ケースを出して、テーブルの上に置いた。
「見ていい?」
 そう訊いて、彼がうなずくのを確認してから、絵麻は中を開いた。 ケースは古い定期入れだった。 写真が一枚だけ入っていて、目の大きな男の子を後ろから抱いてしゃがみ、幸せそうな笑顔を見せている若い女性が写っていた。
 泰河、お母さんによく似てる──絵麻は胸を衝かれた。 自分にそっくりで、でもずっと気の強そうな息子を、若い母はかわいくてたまらない様子で抱きしめていた。
「親父はこんなの捨てろって言った」
 泰河は、写真に見とれている絵麻を見ながら、うなるように言った。
「もっときれいなのがあるからって。 なんかひどく、これだけ嫌ってたんだ。 だからこっちは、よけい大事にしてた」
 たしかに、写真としてはそれほどいい出来ではない。 母親の額に前髪が吹き散らされている。 風の強い日に撮ったのだろう。 しかし、だからこそ自然で、母子の愛情がじかに伝わってきた。
「お母さん泰河を残していくの、つらかったよね、きっと」
「わかんない」
 泰河は投げ出すように答えた。
「最期に会ってないから」
 愕然として、絵麻は口を開けてしまった。
「そんな……!」
「あっという間に全部すませて、骨壷で帰ってきた」
 泰河の声は木枯らしのようにわびしかった。
「入院したときは、まだ笑ったりする元気があったんだ。 それから一週間でポクッと逝っちゃった。 親父は知らせを受けて病院へ行ったが、俺は置いてきぼりだった。
 今でも生きているような気がする。 通りで似た人見つけて、追っかけていったことがある」
 絵麻は言葉もなく首を振った。 あの世へ旅立つ母に、七歳の一人息子を会わせなかったというのか。 信じられない! 檜蔵人という男は、ただの遊び人というよりサディストだったのではないかと、絵麻はそのとき、感じ始めていた。


 二人が下の階で、知り合いの店員となごみながら食事をしている分には、絵麻の親は何も言わなかったし、特に心配もしていなかった。 それをいいことに、まもなく新学期が始まるという日曜の昼下がり、絵麻はまじめな顔で英語学校について切り出した。
「泰河が、遅れてる英語の勉強してるんだって。 いい教室だって自慢するの。 私も通いたくなった」
「絵麻は英語、いい成績じゃないの」
 絵麻はちょっと慌てた。
「まあ、ペーパーテストの点はね。 でもヒアリングはそんなによくないし、教科書だけじゃ実力つかないでしょ?」
 ソファーに寝そべってジャズを聴いていた父が、顔をこっちへ向けて訊いた。
「そういえば絵麻は、習い事してないんだよな」
「うん」
 絵麻はひるんだ。 なぜかレッスンにはついていないのだ。 幼稚園のころ、バレー教室に通ったことがある。 筋がいいと、お世辞でも言ってもらえたのだが、その先生に海外留学の話が持ち上がって、教室が閉鎖になってしまった。
 次には、あそぼうレッツ・イングリッシュ、という児童英語クラブに入会した。 子供の喜ぶゲームを通して生きた英会話と発音を身に着けよう、というふれこみで、入会金がやたら高く、上流夫人たちが競って子供を入れた。 ところが今度は英語クラブの主催者が使い込みで刑務所入りになってしまった。
 素子は、この事件ですっかり怒ってしまい、もう絵麻が行きたいと言い出さないかぎり、お稽古事には行かせない、と決めた。
 幸いにも絵麻は自分でこつこつ勉強できるタイプだったので、学習塾の必要はなかったし、運動クラブにはまったく興味を見せなかった。 水泳は父に教えてもらった。 テニスは母と遊びながら覚えた。 馬とは子供のときから仲良しで、父の同級生だったという知り合いの乗馬クラブのオーナーが、自分の娘と共にポニーに乗せてくれたから、自然に馬にも乗れるようになった。 他に何が必要だというのだろう。








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