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 空の魔法 11 それは困る



 階段の途中で、不意に泰河が足を止めた。 あまり急だったので、絵麻はあやうくバランスを崩すところだった。
「どうしたの?」
 囁き声で訊くと、シッという小さな音が返ってきた。
「先に行け」
 そこで絵麻はようやく気づいた。 通路の向こうのドアが開き、男性が立ったまま覗き込むようにして話していた。 まるで売り込みのセールスマンのようだが、絵麻には後姿でも一目でわかった。 お父さんだ。
 泰河と手をつないで歩いていくのは、さすがにまずいかもしれなかった。 絵麻は階段上部の壁に寄りかかるようにして立っている泰河を振り向き、小さくうなずいてみせてからトントンと残りの階段を下りた。
 二十メートルほど距離があったが、それでも足音が聞こえたらしく、父の昇はすばやく振り向いた。 四四歳にしては若々しい、と絵麻は思った。 もともと昇は若く見える体質で、二八のとき未成年に間違えられたことがあり、それを今でも悔しがっていた。
「ああ。絵麻か」
「おかえりなさい」
 無邪気な表情で、絵麻は父に近づいた。 すると玄関の中で兄と立ち話していた初美が、嫌そうな顔をした。
「あら、また屋上?」
「ええ」
 絵麻はめげずに父と並び、肘を取った。 父がこんなに早く帰宅するのは珍しい。 なんだか嬉しくて、顔がほころんだ。
「早く帰れたんだ?」
「なんとかね」
 そう答えて、父も渋い笑顔になった。 そして初美に短く言い残し、娘と共に自宅へ向かった。
「じゃな。 あんまり心配するな」
 初美はうなずいて、うつむき加減に扉を閉めた。 いつものようにオートロックの音がカチッと響いた。
 ゆううつそうな初美が何を心配していたのか、昇が家に戻ってくつろいでから、ようやくわかった。 もともと昇と素子は仲がいい。 ゆったりした普段着に着替えた昇がビールを持ち出してくると、さっそく二人で音楽を聴きながら、ソファーにゆっくり座り込んだ。
 まだ外は日が高い。 楽しそうな二人をそっとしておこうと、絵麻がにやにやしながらリビングを出ようとしていると、母の声が聞こえた。
「それで、初美さんはまた機嫌悪いの?」
 昇はそそいだビールの泡の具合を確かめながら答えた。
「そうなんだ。 昔からの心配性が悪くなるばっかりだ」
「で、蔵人さんもまたいないと」
「そのとおり」
 夫婦はうんざりした顔を見合わせた。
「あの人、外で何やってるの?」
「わからんなあ。 遊びならいくらでも思いつくんだろう」
「やっぱり」
 大声を上げて、素子はソファーの背もたれにひっくり返った。
「やっぱり遊んでるんだ。 取材のためだなんて言い訳しちゃって」
「まあ一応仕事もやってるんだろうけど、稼いだ金はみんなインマイポケットだから」
「え?」
 素子は真剣な顔になって座りなおした。
「家に一銭も入れてないっていうの?」
「まるっきり」
 少し声をひそめて、昇は秘密を明かした。
「初美は親父の遺産で暮らしてるんだ。 子供たちも」
「そんなー」
 まじめな素子には信じられなかったらしく、いかにも気分が悪そうな顔に変わった。
「そこまで自分勝手とは知らなかった。 今まで昇ちゃんも隠してたから」
 ナツセ・ビルの社長を『ちゃん』呼ばわりできるのは、小学校の同級生と栃木で健在な母方の祖母、そして素子だけだった。 責めるような口調で言われて、昇は中途半端な笑顔になった。
「いやさぁ、やっと初美が別れようかなって気になってくれたんだよ。 だからいろいろ話せるようになったんだけどさ」


 離婚──その言葉が耳に飛び込んできたとたん、絵麻は凍りついた。 大変だ! 文哉は初美の子だが、泰河はちがう。 前妻の檜奈穂〔ひのき なほ〕という女性の子供だ。 だから初美が蔵人と離婚したら、一緒に出ていくことになるのだ。







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