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空の魔法
10 恋人の手は
屋上には、いい風が吹いていた。 高いから、下ではそよ風でも屋上だと強風になることがあるが、その日は違った。 本当に心地よい。 頬をなでる柔らかな空気の流れが、少しざらっとした泰河の顎の感触と入り混じって、絵麻は目まいがするような感覚におそわれた。
傍らで泰河も揺れていた。 かげろうに包まれているように。 だが大気はくっきり澄んでいて、かすみがかかっているのは二人の視野だけだった。
一瞬時間が消えて、気づくと二人は唇を合わせていた。 絵麻は本能的に目を閉じていた。 泰河がどうだったかは知らない。
たぶん一秒間はそのままだっただろう。 やがてゆっくりと唇が離れたが、顔は離れなかった。 泰河がごくりと唾を飲み込むのが聞こえ、熱っぽい息がまぶたにかかった。 彼が何か言い出す前に、絵麻は大急ぎで両腕を伸ばして、首にぶらさがるように抱きついた。
少し経って、泰河が抱き返した。 遠慮がちに頬ずりされて、絵麻は泣きたいほどうれしかった。
「どっちが先にキスした?」
「絵麻」
「ちがうよ〜。 泰河でしょう?」
「……どうかな」
本当にわからないのだと、絵麻は気づいた。 ふたり同時に顔を寄せ合ったのかもしれない。 ともかく、彼らはようやく幼な友達から脱皮するきっかけを掴んだのだった。
絵麻は爪先立ちになって、もう一度泰河と唇を触れ合わせた。
「キットカット味だ」
「んなわけあるかよ。 口開いてないのに」
「じゃ、やってみる?」
「だめ」
泰河はそっと絵麻を引き離し、横向きに並んで肩を抱いた。 額にちょっと辛そうな皺が寄った。
「好奇心は災いのもとって言うじゃん」
「あ、それ『不思議の国のアリス』のセリフ」
「知らんわ、そんなの」
いつものペースに戻ったようで、どこかぎこちない。 それがまた楽しかった。 二つ半違いで、ずっと子供あつかいされていたような気がするが、成長するにしたがって、年の差はどんどん近づいていた。
「初美おばさんには言っちゃだめだよ」
絵麻が秘密めかして言うと、泰河はフーッと鼻息を立てた。
「誰が言うかよ。 自分こそ素子さんに言うなよ」
「言わない」
絵麻はおごそかに約束した。 仲のいい母と娘だが、そろそろ秘密を持ってもいい年頃だった。
二人は指を握り合ったまま、屋上からの階段を下りた。 泰河は手もざらざらしていて、手のひらにまめができていた。 彼のそういう実用的なところが、絵麻は好きだ。 爪をピカピカに磨いてマニキュアしている男は、たとえどんなに男性的に見えても好きになれなかった。
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