表紙

 空の魔法 9 不満が爆発



 キットカットは絵麻の好物で、泰河のではない。 つまり彼は自分が欲しいからではなく、絵麻のためにときどき買っているのだ。 うまく逢えないときは文哉にやるらしい。 お互いわかっているのに、泰河は一度も絵麻に、これあげる、と言ったことはなかった。
 承知のうえで、絵麻はさりげなく嫌味を言った。
「キットカット食べるなんて珍しいね」
「ちょっと腹すいた」
「ふーん、じゃ半分返そうか?」
「いいよ」
「あいかわらずメシに不自由してるの?」
 泰河はちらっと絵麻を見ると、落ち着きなく足を組み替えた。
「メシとか言うなよ〜。 おれが教えたんだって思われるだろ?」
 今度は絵麻が笑う番だった。
「メシぐらい誰でも知ってるって」
 軽く言い返しながらも、絵麻は本気で泰河の健康が心配だった。 初美はもともと家事が嫌いだったが、最近ではどんどんエスカレートして、食事をほとんど作らないらしい。 すらりとした長身なのにいろんなダイエットをやっているという噂で、ますます細くなって頬骨がモデルなみに尖ってきた。
「うちのお母さんが家政婦さん要らないのはわかるんだ。 子供一人っきりだし、自分で家をきちんとするの大好きだから。 でもなんで初美おばさんは頼まないんだろう? お母さんには頼めって言うくせに」
 少し間を置いて、泰河は静かに答えた。
「親父が反対なんだよ。 他人を家に入れたくないんだ」


 絵麻はびっくりして、思わず隣の泰河を見上げた。 彼はこれまで、家庭内のことをまったく口にしなかったのだ。
「えー? 穂高さんは入れてるじゃない?」
「他人じゃねーもん」
 今度は飛び上がるほど驚いた。
「えっ?」
「穂高聡枝〔ほだか さとえ〕は、前は檜聡枝だったの。 親父の妹」
 そんな、と、ほんと? を同時に言いかけて、ほにょっという音が出た。 泰河は苦笑いしながらくるりと向きを変え、曇った空の下で灰色がかって見えるビル群にゆっくりと視線を走らせた。
「たしかに保育士の資格持ってるんだけど、向いてねーよ、あいつ。 文哉のことだってすぐ忘れるし」
 これまで溜まっていたうっぷんを一気に晴らすように、泰河は吐き捨てた。 一方、絵麻はまだあっけに取られていた。
「どうして蔵人おじさんは黙ってるの? 実の妹なら妹って言えばいいじゃない?」
「親父の考えてることなんかわかんねーよ。 だまってろ、余計なことしゃべるな、ばっかりだもんな」
 外では愛想のいい蔵人のワンマンぶりに、絵麻は腹が立ってきた。 彼女の父親の昇だって相当頑固だし、たまには横暴なこともあるが、余計なことしゃべるな、などと子供をおどしたことは一度もない。
「初美おばさんだけかと思ったら、蔵人おじさんも子供かわいがらないんだね」
 いぶかしげに見た泰河に、絵麻は初美の陰口をばらしてしまった。
「初美おばさんってインケンだよ。 泰河のこと信用しちゃいけないって、私に言うの」
「ああ」
 泰河は驚かなかった。 そして薄笑いを浮かべて言った。
「義理の仲なんて、そんなもんだ」
「家ほったらかして年中出かけてる人に、そんなこと言われたくない」
 激しているうちに、絵麻はどんどん切なくなった。 泰河はぶっきらぼうだが、ハートは絵麻が知る誰よりもやさしい。 それに文哉は素直で気立てのいい子だ。 なのに二人には、お互い以外に家族らしい家族がいないのだ。
 発作的に、絵麻は泰河の腕に手をかけて提案した。
「ここの一階の『鈴音〔すずね〕』でご飯食べるようにしたら? あそこ、家庭的な定食で売れてるから」
 泰河は一瞬乗り気になったが、すぐ首を振った。
「おれ金持ってねーから」
「つけにしてもらえる」
 絵麻はきっぱりと言った。
「あそこはうちの系列店だもの。 蔵人おじさんが払わないって言ったら、お父さんに頼むよ。 文哉ちゃんも泰河も育ち盛りなのに、栄養足りなくなっちゃったら」
「おれは外で食べてる」
「ファーストフードばっかりじゃだめ」
「おうよ、いつから母親になった?」
「ほんとに心配なんだって!」
 もうじれったいったらない。 絵麻はGジャンの袖を掴んでぐいぐい揺すぶった。 面白がって泰河がされるがままになっているうちに、勢いでかたむいて二人の肩がぶつかった。
 頬が触れあった。 ほんの軽く、こすった程度だったのに、どちらも喉元が火のように燃え上がった。







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