表紙

 空の魔法 8 二日過ぎて



 絵麻も玄関ドアを閉めて、考え込みながら食事室へ入った。 リビングと食事室と台所に隣接した家事コーナーは、いちおう別の区画になっているが、仕切りの引き戸を開ければ大きなワンルームになる。 だが綺麗好きな素子はリビングに料理の匂いがうつるのを嫌がって、食事室はいつも分けていた。
 初美に言わせれば、素子は大会社の社長夫人なのだからハウスキーパーぐらい雇うべきだそうだ。 だが素子にそんな気持ちはさらさらなかった。
「家に他人を入れたくないの。 もっと年がいって思うように動けなくなったら別だけど」
 素子はそう言って、いつも胸を張る。
「ともかく私は自分の子を人まかせになんかしなかったからね」
 それは確かだ。 絵麻は両親の愛情をあふれるほど受けて育った。 その上、祖父にも気に入られていたから、幼い日の思い出は、たいていこぼれるような笑顔と、まぶしい日の光だった。 祖父とはしょっちゅう屋上に行っていたし、両親はアウトドア派で、あちこちに連れて行ってくれた。 少なくとも絵麻が中学に入るまでは、そうだった。
「今日もお父さん遅いって?」
「うん」
 最近では、まるで母子家庭みたいだ。 会社の業績が悪いから仕方がないとあきらめてはいたが、目を血走らせて飛び回っている父を見るのは辛かった。


 それから二日間、絵麻は泰河に逢わなかった。 土曜が来て、昼間は母の買い物に付き合って渋谷に行き、雰囲気のいい隠れ家的カフェで昼食を取って帰った後、太陽のじりじりが気になって短パンとスモックに着替えて屋上に行った。
 すると、泰河がいた。 庭園が途切れた部分の柵にもたれて、街を眺めている。 後姿の肩が落ちているような気がして、絵麻はふと心配になった。 彼の調子が悪いときには、すぐわかるのだ。 八年前に初美が泰河というコブつきの蔵人と結婚して、このビルに新居を構えてから、ずっとそうだった。
「泰河?」
 そっと呼びかけると、泰河はすぐ振り向いた。 その表情が明るく、ふてぶてしいぐらいに見えたので、絵麻は胸をなでおろした。
 泰河は体勢を変え、柵に両肘を置いて背中で寄りかかり、長い脚を足首のところで交差させた。
「早いな」
「なんか、植木の水が切れちゃった気がして」
「そっちのほうは、おれがさっき水撒いといたから」
「えっ」
 絵麻は本気で驚いた。 泰河は絵麻がいれば手伝ってくれるが、自分から水撒きしたことは、これまで一度もなかったからだ。
「なんだか思いやり、出てきてない?」
 泰河はプッと噴き出し、Gジャンの胸ポケットから半分かじったキットカットを取り出して、絵麻に投げつけた。 絵麻はひょいと受け取ると、包み紙から抜いて食べてしまった。
「おい、それ食いかけだぞ」
「だから?」
「素子さんにばれたらオレが怒られる。 あの人きれい好きだもんな」
「言わなきゃいい」
 そううそぶいて、絵麻は泰河と並んで柵にもたれ、右手を差し出した。 すると泰河に叩かれた。
「なんだその手?」
「残り。 持ってるでしょう? 素直に出せ」
「ったく、もうっ」
 ちっとも怒っていない口調でぼやくと、泰河はポケットから残りの箱を出して、さっき叩いた絵麻の右手に載せた。







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