表紙

春雷 92


 夏の終わり、也中口で町長選挙が行なわれ、大倉善郎〔おおくら よしろう〕は落選した。 時代は変わりつつあったのだ。 石油価格の高騰で漁船を出しにくくなり、水産工場は赤字続きでリストラが行なわれ、町民は大倉家にそっぽを向き出していた。

 四十代の新町長がトンネルの開通式でテープカットをしていた時間帯に、若い男女の二人連れがゆっくりと、よんしゅの崖を上って行った。
 古びたお宮に頭を下げた後、ふたりは並んで崖の端に立ち、持ってきた花束を藍色の海に投げた。 胡蝶蘭と菊の花束は、静かに回りながら泡立つ水面に落ちて、岩の間に吸い込まれていった。
 じっと花束の行方を目で追って、そうやが呟いた。
「ここから落ちると、やっぱりあそこに入るんだな。
 ごめん、中里。 こんなに長く待たせて」
 二人は手を合わせ、目を閉じてしばらく黙祷した。
 季節はもう秋になっていた。 退院した後すぐ、そうやは崖下に潜水夫を入れて捜索する許可を町に要請した。 しかし、何度届を出しても却下されつづけた。 表向きの理由は、自然環境を損なうから、というものだった。
 だから、町長選挙があると知ったとき、田上家は総力を上げて対立候補を応援した。 一流の選挙参謀を探し、資金提供を行ない、スタイリストを派遣してイメージアップを図った。
 新人候補が勝利して間もなく、潜水調査は許可された。

 崖の真下は岩が迷路のように組み合わさっていて、捜索には時間と手間がかかった。 しかし、その岩のおかげで、遺体は海へ消えずに留まっていた。 開始から二時間後、最初に発見されたのは頭蓋骨だった……。

 改めて警察に真実を話すべきか、ふたりは何度も話し合った。 お互いの家族にも意見を求めた。
 どちらの一族も、答えは否定的だった。
 広々とした自宅の居間で、浩次社長は孫にはっきりと言った。
「亡くなった青年は本当に気の毒だった。 だが、彼の死はおまえの責任じゃない。 犯人の身勝手と思い違いが原因だ。
 結果的に、犯人はしっかり報いを受けたと思うよ。 十年間、見えない影にずっと怯え続けたんだから。
 終いに一か八かの賭けに出たんだって? 国会議員になって権力で脅迫者をあぶり出そうとしたんだろう。 だが、その寸前に三咲さんに会ってしまった。 そして、自滅した。
 運命だったんだよ。 因果応報ってやつだ。 中里くんも満足しているだろう。 犯人が死んでしまったのに、今更事件を蒸し返して、生きている関係者みんなを苦しめてどうするんだ」


 風が巻きあがってきて、そうやのさらりとした髪を斜めに吹き流した。
 彼が口の中で何か呟いた。 聞き取れなかった三咲は、首をかしげて訊いた。
「え? なに?」
「いや、昔聞いたことわざを思い出したんだ。
『神の碾き臼〔ひきうす〕は回るのが遅いが、決して碾きもらさない』」
 三咲の首筋に、冷たいものが走った。 ゆっくりと回る運命の臼。 上の石がじわじわと追ってきて、遂に罪ある者に追いつき、引きつぶした。 あの夜の車となって。

「中里さんは、事故扱いに?」
 痛々しげに、三咲が尋ねた。 そうやの目線が、広大な海の果てをさまよった。
「警察はそう発表するそうだ。 でも、ほんとは自殺だったと思っているらしい。 一座を辞める前に、芝居の才能がないんじゃないかって相当悩んでいたのを聞き込みしてるから」
 もしかすると……! ぎょっとして、三咲は顔を上げた。 二人の視線が空中で交差した。
「実は、俺も考えたことがあるんだ。 なぜあのとき、中里は崖の縁まで行ったんだろう。 なんで背中があんなに寂しそうだったんだろうって」
 話しながら、そうやの目がみるみる赤くなった。
「あの日、俺が相談に乗ってやれば……でも、俺の方も気持ちの余裕が全然なくて」
 胸が絞られるような気がして、三咲は反射的に手を伸ばし、そうやの手を握った。
「ごめん。 ごめんね」
 そうやは驚いた表情になった。
「なぜ、みさきが謝る?」
「私が約束の時間に行っていれば、何も起きなかったかもしれない」
「そんなことないって!」
 声が大きくなって風に千切れた。 いきなりがっしりと三咲を抱き寄せると、そうやは自分に言い聞かせるように呟いた。
「わかりっこないよ、本当のことは。 ずっとこの辛さと一緒に生きていくしかないんだろうな」
 そうやの胸に頬を当て、三咲はぎゅっと目をつぶった。 そうすると視野がかげって、十年前別れた日の前日のように、暗い世界に包まれた。
 頭の奥で、遠い雷が鳴った。 懐かしく、恐ろしい雷鳴の音……
「そうや」
 そうやは身じろぎもせず、三咲を抱きしめていた。
「生きていこうな? 二人で」
「うん」
 そうだ。 どこまでも二人で!

 しばらく吹き寄せる風の中にたたずんでいた後、お互いの温もりを確かめながら、二人は腕を回し合い、黙って崖を下りていった。


【終】






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