表紙

春雷 85


 三咲の眼が焦点を失った。 ぼんやりとかすんだ病院の壁をバックに、のんびりした故郷の風景が脳裏に浮かび、次々と移り変わった。
 也中口は漁業の町だ。 水産加工業を手広く営み、漁船も数隻所有している大倉家は、町民の半分以上の暮らしを引き受けていた。 だから大倉の父親は、町長選挙でいつも対立候補に大差をつけて当選していたのだ。
 たしか五期、ぶっ続けで町長の座についている町一番の実力者。 世中口だけでなく、仕事を通じて近くの町村にも大きな影響力を持っていた。
 そして久士はその町長の息子。 一見すると礼儀正しくて真面目な青年だが、一皮剥けば……

 苦いものが口の中に広がった。 滅入った気分で、三咲は小野寺のくっきりした眼を見上げた。
「確かに大倉くんは、あの後、私に話しかけなくなりました。 私が性格変わって、無愛想になったから、そのせいかと思っていたんですが」
「ちがう」
 小野寺はきっぱりと否定した。
「そうやがその男を遠ざけたのよ。 匿名の封書を送ったの。 その写真と脅迫状を入れて。 中身はね、こんな風。
『お前が殺した男の友達だ。 彼の代わりに山西三咲さんを守る。 彼女に絶対近づくな。 手を出したらすぐ、この証拠写真を県警に送る』」

 三咲の首が、頼りなく揺れた。 大倉がいきなりそうやに飛びかかったときと変わらないほどの驚きに、目の前が暗くなった。
「どうして……」
「そりゃあんた、好きな女の子を殺人犯と結婚させたいと思う?」
「でも私、そうやと行かなかったのに……」
「そうよね。 創ちゃんも振られたと思っていた。 でもね、たとえ離れていても、幸せになってもらいたい相手って、あるものなのよ。
 彼は本当にあなたが好きだった。 日本に帰ってきた後、家族みたいに思えたのはあなただけだったって、いつも言ってたわ。 親友の私にもあそこまで親しみは持てないって。 失礼しちゃうわよね。 脅迫状の代筆までしてやったのに」
 三咲の左手が、スカートを握りしめた。 皺になるほど、力任せに固く。




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