表紙

春雷 76


 再び目を開いたとき、三咲は数秒間ぼんやりしていて、何も思い出せなかった。
 それから、記憶が急流のように襲いかかってきた。 サイレンや人の呼び交わす声でかまびすしい中、三咲は肘で体を起こし、黒い人山ができている車道に目をこらした。
 彼女は、道端のベンチに寝かされていた。 足を下ろそうとして体をねじっていると、野次馬に事情を訊いていた警官が振り返って、急いで近寄ってきた。
「あなた、負傷者の知り合い?」
 負傷者……! その言葉に、三咲はしがみついた。
「生きてるんですか?」
 警官はボールペンで頭をかいた。
「一人は即死。 もう一人は重傷。 バイクの運転者は軽傷だけど、念のため今搬送されてった」
 三咲は呼吸が止まりかけた。
「重傷って、だ……誰です?」
 警官はメモを見た。
「所持していた免許証によると、田上創という男性だが」
 ふるえる息が、口から吐き出された。 生きている。 そうやは、生きている!
「どこへ運ばれたんですか?」
「その前にちょっと事件について……」
「後で話します! 今は彼のところへ行かなきゃ!」
 そうやは助かる。 三咲はそう信じた。 心底から念じた。 そうに決まってる。 そうじゃなければ、私だって生きていられない!
 警官はもう一度頭を掻き、妥協した。
「じゃ、あなたの名前だけ聞かせて」
 一瞬思い出せなかった。 何てことだ!
「……山西。 山西三咲です。 で、病院は?」
「ああ、はいはい。 南坂〔なんざか〕第一病院。 場所は、ええと、大崎駅の前」
 店の中から、青い顔をしたウェイターの二十代男性が出てきて、三咲にバッグを渡した。
「これ、お忘れです」
「あ、すみません」
 受け取ったとたん、指がひどく痛んで、路面に落としてしまった。
 拾い上げてくれた男性が、三咲の手を見て低く叫んだ。
「指! 中指がぶらぶらしてますよ」
 そこで初めて、さっきそうやと握り合った指が折れていることを、三咲は知った。 



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