表紙

春雷 74


 大倉の肩が上がった。 軽くそびやかすような仕草だった。
「見栄張ってる? かわいいな。 世の中そんなに金持ちが転がってるもんじゃないよ」
「そう思いたいんなら、そういうことにしておくわ。 悪い、私ちょっと化粧室に行くから」
 空気がよどんできた気がして、呼吸が苦しくなった。 そうやが来るまで少し席を外そう。 三咲が椅子を引いて立ち上がろうとしたそのとき、上着を腕にかけた当人が急ぎ足で入ってくるのが見えた。
 胸につかえたものが、さっと降りた。 三咲は顔中を笑いに替えて、嬉しそうに呼びかけた。
「そうや!」
「悪い。 また遅れちゃったな」
 澄んだ声で答え、テーブルに近づいてきたそうやを、大倉が体をねじって視野に入れた。
 ガタンという音が響いた。 スーツのボタンが引きちぎれるほどの勢いで、大倉は椅子を倒して立ち上がった。

 そうやも足を止めた。 二人の青年は、三メートルほどの距離で、微動もせずに見つめ合った。
 やがて大倉の指が自らの上着の胸を掴み、関節が浮き上がるほど力を入れた。
「……松枝……!」

 三咲の目が大きく拡がった。 松枝? 彼を知ってるの? おまけになぜ、そうやの旧姓を?
 そうやの顎が動き、うっすらと微笑が浮かんだ。 手が上がって、静かに眼鏡を取ると、素顔を露わにした。
「そうだよ。 確かにこの通り。 残念だったな」
 その口調には、明らかに蔑む響きがあった。 穏やかで思いやりのあるそうやから、初めて聞いた氷のような声だった。
 大倉の肩が、不規則に上下し出した。 息が荒くなり、ヒューヒューというかすれた音が喉から洩れ始めたのを聞いて、三咲はぞっとした。 中学三年のとき、也中口で密かな噂になっていた事件を思い出したのだ。
 出にくい声を振り絞って、三咲は必死に警告を発した。
「逃げて!」
 ほぼ時を同じくして、大倉は豹のように体を丸めると、背の高い姿目がけて一直線に襲いかかった。



表紙 目次文頭前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送