表紙

春雷 73


「なあ、山西」
 あくまでも穏やかな声が尋ねた。
「ほんとに婚約した?」
 胸に湧き出たしこりが少しずつ大きくなってきた。 目隠しをしたまま迷路を歩いているような気分だ。 何かが耳の奥で警告していたが、三咲は思い切って顔を上げ、きっぱりと言った。
「した。 もううちの親にも紹介したし」
「へえ」
 大倉は微笑した。口の端が横に広がり、狼を思わせる表情になった。
「普通の勤め人だろ? 小さなマンション買ってローンかかえて、苦労する人生か」
「そういうの馬鹿にするわけ?」
 我慢できなくなって、三咲は遮った。
「いいじゃない。 自分の足で立って、手で稼ぐから一人前なんでしょう?」
「はっ、いいよね、確かに。 一般人としては、それで充分だよ」
 余裕を見せて、大倉は続けた。
「でも、山西はそれじゃもったいない。 広い家にゆったりくつろいで、あちこちに別荘持って、ヨーロッパに飛んで買い物する。 どう? そんな人生、夢見ない?」
 三咲の頬が上気した。 これまで考えてもみなかったが、本当にそういう暮らしをしようと思えばできるようになるのだと、不意に気付いた。
 とたんに夢想の世界が開けた。 特に贅沢は言わないが、新婚旅行は時間をかけて、ガーデニングの本場イギリスや、花苗の宝庫オランダ、南フランスなんかをゆっくり回れたら!
 そうだ、そうやに頼んでみよう。 二人で、二人っきりで、ジャンパーにカーゴパンツか何かの軽装で、のんびりとユーロ各国を回るのはどうかって。 英語が話せて、外国の旅に慣れたそうやと行くのは、どんなに楽しいだろう!
 三咲がぼんやりしてしまったのを、自分の言葉に対する反応だと思ったらしい。 大倉は、更に活気付いた。
「な? きれいごと言っても、世の中やっぱり金だよ。 俺なら山西の夢を充分叶えてやれるよ」

 三咲の頬に、ぴりっと一筋線が走った。 父に対する嫌がらせの原因は、これだったのかもしれない。 仕事のことで追いつめて、娘を手に入れるつもりだったのか……
 さめかけたコーヒーを飲み干すと、三咲は気持ちを押えて平静に言った。
「私の彼ね、結構金持ちなの」
 



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