表紙

春雷 71


 『馬酔木』は、ちょっと面白い店だった。 左半分は黒塗りの格子戸で竹の鉢植えが置いてあり、右半分は天井まであるガラスの引き戸で、両側に引き込むとオープンカフェになる仕組みになっていた。
 その晩は、引き戸が半分だけ開いていて、三咲はそこから入った。 すぐに、しゃれた浅葱色の作務衣姿をした店員が近づいてきて、笑顔で話しかけた。
「失礼します。 山西さまですか?」
 ちょっと驚いて、三咲は足を止めた。
「はい」
「いらっしゃいませ。 ご予約承っております。 こちらへどうぞ」
 前もって、そうやが知らせておいたらしい。 店員は三咲を丁重に、中庭の見渡せる上等な席に案内した。

 時刻は七時を十八分ほど過ぎていた。 半までに必ず来るとそうやは言っていたが、八時までゆったりと待つつもりで、三咲はとりあえずカフェラテを注文した。
 間もなく小ぶりのカップが前に置かれた。 持ち上げて、白い小鳥のついた側面を観賞しながら、三咲は昼間のことを思い返していた。
――ずっと付き合ったのに、不意に手のひらを返したように去っていく男もいれば、十年ぶりに逢ったとたんに昔の情熱を取り戻す人もいる……
 時間って何なんだろう。 牧穂は二人の愛情を積み重ねてきたつもりだったのに、相手はだんだん心をフェイドアウトさせていたんだろうか――
 考え込んでいるうちに、カップを手で包んでも熱さを感じなくなった。 急いで口をつけようとしたとき、すらっとした青年が入ってくるのが見えた。
 そうやではないのは、目の端に引っかかったぼんやりとした映像だけでわかった。 だが、どこかに見慣れた感じがあって、思わず視線を向けた。
 向こうも三咲に気付いた。 一瞬立ち止まり、方向を変えてこちらへやってきた。 体に添った上等なスーツとノットの大きいネクタイがきちんとした印象を与える、見るからにやり手そうな男性だった。
 見覚えがある。 確かにあるのだが、名前が出てこなかった。 やや大きめで輪郭のくっきりした眼鏡も、服と同じに値段の高そうな品物だ。 手にしているバッグはヴィトンだし…… 喉につかえたようなもどかしい感触が、三咲を捉えた。
――ええと、誰だっけ……!――
 スマートで自信に満ちた態度の青年は、三咲の前で止まり、以前は毎日のように聞いていた声で言った。
「山西か。 見違えちゃったよ。 懐かしいなあ。 何年ぶり?」
 その瞬間、記憶のピントが定まった。
 笑顔を浮かべずに、三咲はゆっくり口にした。
「大倉くん?」



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