表紙

春雷 58


「あ、専務? 先日はご注文ありがとうございました」
 小声で問いかけられて、そうやは淡々とした笑顔を浮かべた。
「こんばんは。 丁寧に飾り付けしてもらって助かりました。 ここの花、評判いいですよ」
「うわ、ほんとですか」
 藤崎は表のフラワーアレンジを担当したため、嬉しくて白い歯を見せた。
 壁の時計を見て、そうやはごく自然に訊いた。
「八時ですね。 三咲さんオフにしてもらっていいですか? ちょっと約束があって」
「ええ、ええ、どうぞ」
 妙に熱を入れて答えると、藤崎は首を背後にむけて、三咲にわざとらしい視線を送った。 他の店員たちも、三咲がロッカーのほうへ行くのを目で追っているようだ。 背中に妙な圧力を感じて、三咲は落ち着きを失った。


 駐車場まで歩いていくとき、ぽつぽつと雨が落ちてきた。
「急ごう」
「うん」
 サンダルの踵が舗道を打って、カチカチと金属的な音を立てた。 見上げると、暗幕のような雲がずっしりと空を覆っていた。
「今夜は雷鳴らないよね」
 大股で飛ぶように歩きながら、そうやもちらっと空を見た。
「たぶん」
 小走りになって、三咲は早口で続けた。
「雷、怖いんだ。 なのによく落雷に遭っちゃうの。 この前もジーンズショップに逃げて、腰が抜けそうになった」
 そう、あのとき…… 三咲は短く息をついて呼吸を整えた。
「高輪〔たかなわ〕だった。 あの店の前にいた? 鏡に映ったような気がしたんだけど」
「うん、いた」
 低い声が返ってきた。
「軒下に飛び込んだら、顔が見えた」
「声かけてくれればよかったのに」
「いや……」
 言葉を濁して、そうやは話題を切り替えてしまった。
「そんなに雷こわがったっけ?」
「わからなかった? 前に一緒にいたとき、船に落ちたことあったでしょ? あれから、雷が一等怖い」
 パーキングエリアが見えてきた。 キーを取り出しながら、そうやは口を動かした。 低くこもっていてほとんど聞き取れなかったが、三咲にはこう言ったように思えた。
「俺はもっと怖いものを見た」



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