表紙

春雷 56


 鍵を開けてこっそり入ったが、中では何の物音もしなかった。 親が目覚める時間まで後三十分ぐらいある。 二人ともぐっすり眠っているらしかった。
自分の部屋に行ってドアを締め切ると、不意に身震いが走った。 灯りのない部屋は薄暗い。 それなのに、虹色の輪が一杯に拡がって見えた。
 服のままベッドに身を投げて、三咲は目をつぶった。
――嘘みたい。 ほんと、嘘みたい…… ――
 間違いなく幸せだった。 そうやの秘密主義が心の隅に引っかかってはいたが。


 目が冴えたまま、出勤時間が近づいてきた。 三咲は素早くシャワーを浴びて服を替え、階段を下りていった。 
 父はもう玄関で靴をはいていて、足音に気付いて顔を上げた。
「帰ってたのか」
 そうやとはキスだけだったのに何か照れくさくて、三咲は父の顔をまともに見返せなかった。
「うん」
「朝帰りして悪いって年じゃないが、電話ぐらいしろよ。 お母さんちょっと心配してたぞ」
「うん、ごめん」
 父がゴルフバッグを手に取るところをぼんやり見ていて、思い出した。
「そうだ。 お父さん今日何時に帰る?」
「四時ぐらいかな。 もう運動の後に飲み会だと体がもたない」
 ひょいと首が回って不思議そうに尋ねた。
「なんでそんなこと訊く?」
「いや、ちょっとね」
 顔が熱くなってきたので、三咲は急いでリビングに逃げ込んだ。

 母は、コーヒーを前に置いてクロワッサンを食べながら、テレビのニュースに見入っていた。
「あ、三咲。 今日も出勤? ご苦労さん」
「それまだある?」
「クロワッサン? あるよ。 ほれ」
 ポンと投げられた。 受け取って、冷蔵庫から野菜ジュースを出しながら食べていると、時計が鳴った。
「行かなきゃ」
 急いでジュースで流し込んだ後、仄めかすぐらいはいいだろうと思った。
「あのね、今日友達が来るから」
 母というものは、時に恐ろしく勘が働く。 テレビから目を離さずに、母は淡々と尋ねた。
「松枝って人?」
「い……いや」
 三咲はどきっとなった。




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