表紙

春雷 54


 そうやは、すっと体を倒して、顔を近寄せてきた。 三咲は自然に目を閉じ、唇が触れるのを待った。
 キスしたとたん、かもめの声が聞こえた。 ざわめく波の音が車内に広がり、黄金色の残像が瞼の裏でちらちらと光った。
 戻ってきたんだ――染み入るような嬉しさが、三咲の心を一杯に充たした。
――あの夏が、戻ってきた。 そうやといつまでも一緒にいられる夏が!――


 夜明け前の駐車場は静寂に包まれていた。
 首筋に埋めていた顔をわずかに上げて、そうやが尋ねた。
「明日、じゃないもう今日だ、日曜だけど休みじゃないね?」
「うん、休みは火曜日」
「そうか……でもご両親は休みだよね」
「親?」
「仕事が終わったら待ち合わせして、挨拶に行くか」
 すごい展開の早さだ。 三咲は落ち着きを失った。
「あ、じゃお母さんは掃除掃除って大騒ぎになるな」
「行くまで言わないで」
 え? これは納得がいかなかった。
「だって、うち綺麗にしないと」
「俺は客じゃないよ。 気を遣わせたくない。 それから、俺の元の名が松枝だってこと、黙ってて」
「なぜ?」
「じいさんが嫌がるから」
 次々に注文が流れ出た。 まるで前もって準備していたようになめらかに。
「そうや昔はうちへ来たがらなかったよね?」
 三咲が声をひそめて尋ねると、そうやは別に動揺もなく答えた。
「うん、さらって逃げようと思ってたから」
 三咲の胴に回った腕に力が入った。
「でももう大人になった。 ちゃんとしたいんだ。 みさきの家に認めてもらって、じいさんにも話して」
 もちろんその方がありがたいが。 三咲は再び、渦に巻き込まれたような気がしてきた。 普段は落ち着いているそうやが、彼女のこととなるとどうして時間を惜しみ、ときには不自然にまでなるのか。
「ねえ、そうや?」
「なに?」
「急ぐ理由があるの?」
 答えるまでに、わずかな間があった。
「そのほうがいいと思ってるだけだよ。 もう二度と邪魔が入らないように」



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