表紙

春雷 52


 浜でうずくまっているうちに、二人の時間は逆転し、すごい速さで巻き戻っていった。
 そうやは三咲を腕にかかえこんで、赤ん坊をあやすように軽く揺すぶった。
「残業した夜なんかさ、夢で聞こえることあるんだ」
「ん?」
「おっつかれ〜とか、おっまたせ〜って」
「何それ?」
 そうやは低く笑った。
「そういう言い方するんだよ、みさきは。 おの後に小さい『っ』が入るの」
 気がつかなかった。 自分の癖はわからないものだ。
「そういう夢って、必ず潮の匂いがするんだ。 それに、ぎゅっと握った手の感じも」
 握りしめた手の温もり……それなら三咲にも覚えがあった。 息を切らせて崖を登ると、大きな手が引っ張りあげてくれる。 目が合って、嬉しさに声を出す。
『生きてたんだね、そうや。 私、間に合ったんだ!』
 だが、自分の声で目覚めると、いつも周囲はしんとしていて、三咲はベッドの上で一人きりだった。
 ティッシュを出して鼻をかむと、三咲はそうやを軽く押しのけ、真面目な声で言った。
「もう帰らなきゃ」
「だめ」
 不意にきっぱりした調子で、そうやが言い返した。
「三咲はあの日、来たんだから。 俺と逃げるつもりになってたんだから」
「でもあれはもう十年も前で……」
「気持ち変わってる?」
 三咲はとっさに答えられなかった。 あれから随分いろんな男の人に会った。 合コンにも何度か招かれた。 その中にいただろうか。 いつも手を繋いでいたい人、眼が合うと思わず微笑みかけたくなる人が。
「一緒にいよう」
 耳元に息がそよいだ。
「朝までずっと一緒に」
 どうしたらいいかわからなくなって、三咲はぎゅっと目を閉じた。



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