表紙

春雷 47


 まるで間があくのが怖いかのように、そうやは低い声で訊いた。
「今、靖国通りを走ってるんだけど、みさきはどこ?」
 すぐに三咲は心を決めた。 話したい。 ゆっくりと訊いてみたいことが山積みだ。
「すずらん通り」
 そうやの声が弾んだ。
「すぐ行く!」

 ゆっくりと店を眺めながら歩いていると、上品な茶色のレク○スがすっと近寄ってきて、脇に停まった。 三咲はためらわずに乗り込んだ。
 ドアが閉まるとすぐ、そうやは車を出した。 薄暗い車内で街の音が遮断されると、気持ちがずいぶん落ち着いた。
 ナビを見ながら、そうやが訊いた。
「家まで送る?」
 うん、と言おうとして、三咲は口をあけた。 なのに、出てきた言葉はまるで違っていた。
「海、見たいな。 日本海の海」
 言ったとたんに、もやもやが吹っ切れた。
 あの日以来、一度も海に行かなかった。 水の中にただよっていた半被〔はっぴ〕の影があまりにも強烈で、海の写っている写真を見るのさえ辛かった。
 でももう平気なのだ。 いくら海面を眺めても、両手できらめく波をすくっても。
 そうやは口の両端に堅い筋を作って、じっと前方を見つめていたが、やがて答えた。
「よし、新潟まで行こう」
 自分で言い出しておいて、三咲はぎょっとなった。
「今から?」
 そうやはアクセルを踏み込んだ。
「そう、今から」

 しばらくは似たような道路が続いた。 左右に歩行者とテイルランプの波、ひっきりなしに現れる交差点の信号。 だが、ある時点で左に曲がってから、両側の明かりは急に少なくなり、暗い建物や住宅が目立つようになった。
 そこまで、車内の二人はほとんど無言だった。 十年離れていると、話題は共通の『昔話』になってしまう。 そして、あの時代のことは、懐かしく語るにはあまりにも生々しかった。
 しかし、周りの景色がのんびりしてくるにつれて、気持ちがほぐれてきた。 ジーンズの足元から覗くスニーカーをちょっと気にしながら、三咲は口を開いた。
「もう私に話しかけても大丈夫なの? お祖父さんに怒られちゃうんじゃない?」
 車が横揺れした。 ステアリングを切り直すと、そうやは怒ったように答えた。
「じいさんなんかに文句は言わせない」
 へえ、強気なんだ――意外な気がした。 三咲が眼をぱちくりさせていると、そうやは説明を付け加えた。
「戻ってきてくれって、頭を下げて頼まれたんだ。 たいていの条件は飲むからって」
「家出してたの?」
「いや」
 そうやは頬を凹ませた。
「家を出たのは、俺の母親。 じいさんの一人娘でさ。 養子の婿を押し付けられそうになって、舞台俳優と駆け落ちしたんだ」
 駆け落ち……! 三咲の心臓がドクッと鳴った。 息子のそうやがやろうとしたのも、祖父の手から逃れるための駆け落ちだったのだろうか。
 訊こうとして座りなおしたとき、体がよじれた。 とたんに空の胃袋が悲鳴をあげた。
 まずい、お腹が鳴っちゃった――三咲が横目でそうやを探ると、彼は笑いながら言った。
「晩飯、ほんとはまだだろ」



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