表紙

春雷 45


 番号を入れるのに指が震えたなんて、初めてだった。 これは明らかに携帯の番号だ。 そうやの私的な電話なのだろう。 簡単には人に教えないはずだった。

 おかげで、その後は上の空になった。 おつりを百円間違えたり、花ばさみを足に落としたりした。 さいわい、刃が上になったので怪我はしなかったが。
 八時少し過ぎに店を出て、まだ賑やかな通りを歩いているうち、我慢できなくなって、バッグのアウトポケットに入れた携帯に手が伸びた。
 道で歩きながらかけるのは、あまり好きではなかった。 でもその晩に限って、やってみたくなった。 時間に追われるビジネスマンのように、三咲はバッグを肩にかけ直しながらボタンを押し、耳に当てた。
 遠くで呼び出し音が響いた。 今どこにいるんだろう。 もしかして、向こうも仕事中だったら…… 三咲はためらい、五つ鳴って出なかったらかけなおそうと決めた。
 四つめの途中で、声がした。 もしもし、ではなく、ずばりと、
「みさき?」
 ぎくっとなって、うまく返事できなかった。

 声は、少し不安げになった。
「あ、違う?」
「違わないよ」
 三咲があわてて返すと、声は落ち着いた。
「よかった。 ええと、急に家へ電話なんかして、きっとびっくりしたと思うけど」
「うん、ああ……いや」
 わけのわからない答えになった。
「あのさ」
「ん?」
「みさきって、変わらないな」

 三咲は立ち止まった。 突然鼻がツンとなって、街灯が虹色にぼやけた。
 十年もの間、そうやは三咲の頭上に覆い被さる灰色の影だった。 崖で融けるように消えて十年、何の連絡もなく、九分九厘死んだと思い込んでいた。
 だが、彼は生きていた。 大会社の重役になり、華やかな人生を送っていた。 そして、偶然に顔を合わせるまでは、三咲に連絡を取ろうなんて、たぶん一度も考えなかったのだ。
 携帯を持ち直すと、三咲は静かに言った。
「ずいぶん変わったよ。 そうそう、花を大量注文していただいて、ありがとうございました」
「あれは……」
 困ったようにいったん口をつぐんでから、そうやは尋ねた。
「晩飯食べた?」



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