表紙

春雷 40


 翌朝は、店長と市場に行くので早番だった。
 四時半に起きて、クロワッサンを野菜ジュースで流し込んでバッグを肩にかけ、玄関で靴を出していると、眠そうに母が顔を見せた。
「もう行くの?」
「うん、今日はオークションのお供」
「オークション……ああ、せりのことね」
 そう言ってから、目を細めて娘を観察し、早口になった。
「三咲! 口紅、ほら」
「は?」
 なんだろう、と思いながら壁にある鏡を覗いて、三咲は固まった。
「やべっ」
「どうも顔色悪いと思ったら。 口紅つけ忘れるなんて珍しいね」
 にやにや笑いを残して、母はリビングに入っていった。 急いでルージュを取り出すと、三咲はささっと手早く塗って靴をはいた。

 明け方の空気はひんやりしていた。 だが、踵に羽が生えたように足が軽く、駅まで五分ほどの道のりを、三咲は小声で歌いながら歩いた。 人通りがほとんどないので、怪しまれることはなかった。


 店長の村川と同僚の『杉さん』こと杉町昇一と共に花市場の建物に入ったのは、六時二十分頃だった。 オークションにかかる花の下見は、六時半から始まる。 村川はさっそく顔見知りの花屋を見つけて挨拶した。
「よお、佐々木さん」
「ああ、久しぶり。 先週は来なかったね」
「副の江藤に行ってもらったんだ。 産地直送の分に手違いがあって、電話でクレームつけてたもんで」
「最近はあちこちから取り寄せるから、手配が大変だよな。 オレなんか機械に弱いからよ、パソコンは息子に頼りっぱなしで、頭上がんないよ」
 笑い声が上がった。 杉町が話しかけてきた。
「先に下見行っとこう。 将来は独立したいんだろ? がっつり見て研究しとかなきゃな」
「はい」
 三咲は彼と並んでいそいそと歩き出した。 杉町は、ちょっとけげんな表情をして、横にいる三咲にちらっと目線を送った。
「三咲ちゃん、なんかあった?」
「なんかって、別に」
 声があいまいになった。 慌てて塗ったから、口元が決まってないのかと不安な気がした。


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