表紙

春雷 39


「田上〔たのうえ〕さん!」
 背後にいた男の一人が、高い声で呼んだ。 三咲が『松枝』として知っていた青年は、すぐ振り返って気軽に言葉を返した。
「いま行く」
 相手のほうが年上らしいのに、彼の答え方は明らかに上司のものだった。

 そのまま、彼は行ってしまった。 無意識に三咲が目で追っていると、生け花の先生が軽くもたれかかってきた。
「見とれてる?」
「あ、いや……」
「あの人、有名な貸しビル会社の御曹司らしい。 知ってた?」
「いえ、知りません」
 それは確信を持って言えた。 あまりの意外さに、もしかすると他人の空似だったかと一瞬思ったぐらいだった。
 だが、彼の眼は明らかに三咲を見知っていた。 薄化粧に見える念入りメイクをスキャンのように見通して、奥にある三咲の顔立ちを確認していた。

 それっきりだった。 田上となった『松枝』は二度と振り向かず、部下たちと広間の飾りつけを点検していた。 いつまでもいるのは不自然なので、三咲は生け花の先生に挨拶して裏口に向かった。
 初めは、胸がちりちりと痛む感触があった。 だが、鉄張りの扉をあけて、光り輝く春の太陽を全身に浴びたとき、いきなり体が軽く浮いた。
 心を縛っていた鎖が、不意に存在しなくなった。 光の照り返しの中で、粉みじんに散っていく様子が見えるようだった。
 そうやは、生きていた。 ひとりぼっちで悩み苦しんで、崖から身を投げたのではなかった……
――私がいいかげんだったから、時間に間に合うように出なかったから、あんなことになったんだと思ってた。 私が力になれなかったから…… ――
 あのとき、彼には確かに支えが必要だった。 異様に高ぶっていて、不安に駆られていた。
 もしかすると、誰でもいいのかもしれない。 傍にいてくれる人なら、私でなくてもいいんじゃないか……なんとなくそんな気がして、母に呼び止められたのを口実に、うちでぐずぐずしていた。
 ほんのいっときのためらい。 その代償は大きかった。 あのとき、相談に乗っていれば。 心のうちを聞いてあげていれば! この十年間、三咲は真っ暗な後悔の中にいた。
 だが、彼は危機を乗り切った。 待っても来ない三咲を見限って、劇団のはっぴを投げ捨て、新しい人生に出発していったのだ。 おそらく、自分ひとりで心を決めて。

 バンの運転席に乗り込む前、三咲は思い切り両腕を差し上げ、遠い太陽に向かって叫んだ。
「最高にきれいだよー! 今日のお日様!」


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