表紙

春雷 38


 無視して帰ってもよかったのだが、もしお得意さんだったらと気になって、三咲は振り返った。

 視線の先に、松枝がいた。


 潜在意識で悟っていたのかもしれない。 ジーンズショップの鏡で見たときほど、驚きはなかった。
 それでも三咲は、全身がしびれたようになって立ちどまった。 目が合うと、松枝は薄く笑って、軽く頭を下げた。
 三咲は動けず、柱のようにただ突っ立っていた。 視線を据えたままでいると、再び上げた松枝の眼は、夏の海のような不思議なきらめきを放ってきた。
 意識が抜けてしまった三咲の頭に、そのきらめきははっきりと、心の声を運んできた。
『やあ。 久しぶりだね、みさき』
 三咲の手が、無意識に心臓の上へ行った。 それから喉を伝って口へと。
『そう、俺だよ。 驚いた?』
 ダンボールの箱を開いて、せっせと花を水揚げする作業を止めて、生け花の先生が二人を見比べた。
「お知り合い?」
 我に返った三咲は、かすれ声で反射的に答えてしまった。
「いいえ」
 だがそう言っている間に、松枝は同伴者に一言二言言い残して、こちらへ歩み寄ってきた。 そして、なごやかに先生に話しかけた。
「お世話になります。 いい色のつぼみですね。 ええと、何ていう花でしたっけ」
「ああこれカキツバタなんですよ。 昔から屏風に描かれたりしてましたでしょう? 季節物で、縁起もいいんです」
「日本情緒たっぷりだ。 叔父も喜びますよ」
 穏やかな松枝の声は、十年前より深みを増して、ある種の威厳さえ感じさせた。
 彼はいくつ? 何歳になっただろう。 ぼうっとした意識の中で、三咲は懸命に思い出そうとした。
――あの夏、そうやは十八だった。 だから今は、二十七か八になるはず――


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