表紙

春雷 36


 翌日は、普通通り仕事だった。
 仲卸の朝は早い。 早朝にトラックで花が次々と運び込まれ、仕分けされて、今度は小売店に出荷される。 パソコンで伝票を切る傍ら、最近始めたネット販売の集計と出荷手配もしなければならない。 しかも、その合間にピーク時には運搬の手伝いまであって、特に午前中はてんやわんやだった。

 父が弁当派なので、母はついでに三咲の分も作ってランチボックスに入れてくれる。 定時きっちりに終わる仕事ではないから、好きな時間に広げて食べられる弁当は助かった。
 芍薬〔しゃくやく〕担当の大宅恭子〔おおや きょうこ〕が丁度戻ってきたので、二人で屋上へ上がって食べることにした。
「生姜焼き? おいしそう!」
「そっちのホタテと交換しましょうか」
「これ? ただの冷凍だよ」
 大宅はあっけらかんと言い、それでもさっさと三咲の焼き肉を一切れつまんだ。
「千葉の農家から初めてサラベル入れてみた。 なかなかいい出来でね、それともう一種類、二色咲きのボール・オブ・ビューティーってのも見本で貰った」
「そうか、もう芍薬が出回ってきたんですね」
「そろそろスナップ(=キンギョソウ)もチューリップも終わりだわ」
 花は生き物だから、移り変わりが激しい。 将来はフローリストになるつもりで、三咲は先輩たちの話に注意を払い、仕事のコツを聞きもらさないようにしていた。
 食べ終わってのんびりと降りてくると、付属の花屋『フローラルベル』の小阪がきょろきょろしながら歩いていて、エレベーターから出たとたんに捕まった。
「あ、山西ちゃん、レイジン・ホテルのフロントから電話でね、錦の間にカキツ(=カキツバタ)を飾りたいんで、至急一箱届けてくれないかって。 私手が離せないから、ちょっと行ってきてくれる?」
「はい、ええと、住所は?」
 すぐに伝票が渡され、横腹にプリムラの絵と店のロゴが入った小型バンで、三咲は出発した。
「まっすぐ行って、団子屋の横を左」
 つぶやきながら目印の店を探しているうち、前に勤めていた銀行の支店が見えた。 とたんに胸によどんだものが溜まった気がして、三咲は視線を逸らした。
 普通なら辞めないような理由で、三咲は辞職を決意したのだった。 出世コースをまっしぐらの先輩行員に交際を申込まれたという理由で。


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