表紙

春雷 35


 三咲は、吸い寄せられるように鏡面を見つめ続けた。 なぜか何の恐れもたじろぎもなく、ただ懐かしさだけが溢れてきた。 鏡の裏は別の世界…… 昔読んだ童話が頭をよぎった。
 松枝も動かなかった。 じっと立ったまま、鏡の中から三咲と視線を合わせていた。
 彼は、セーターとズボン姿だった。 黒のハイネックセーターとチャコールグレイのカーゴパンツ。 髪は短めで、サイドのカットがさりげなく決まっていた。
 ああ、やっぱり綺麗だ。 ハンサムというより繊細で綺麗――心がふるえた。 こうやっていつまでも眺めていたかった。
 だが、そう願った直後、辺り一面が真っ白になった。 ほぼ同時に真上でドラを百個まとめて鳴らしたような轟音が炸裂し、三咲は頭を覆って床にしゃがみこんでしまった。
 次の瞬間、何もかも暗闇に包まれた。 送電線かどこかに落雷したらしい。 店員が舌打ちして外に飛び出し、周りを確かめていた。
「向かい側は点いてるよ。 困るなあ、停電なんて」

 幸い、落雷の被害は軽かったらしく、一分もしない内に照明がパチパチッと音を立てて点灯した。 三咲はショーケースの横に手をかけて、ようやく自分の体を引きあげた。
 立ち上がるとすぐにしたのは、鏡を探すことだった。 細身の姿見は、ちゃんと同じ位置に立てかけられていた。 だが、中に映っていた松枝の全身像は、どこにもなかった。

 当たり前だ、と、三咲は自分に言い聞かせた。 あれは雷雨の前の低気圧が引き起こした心の揺れ、幻だったのだ。 雷がもたらした過去の記憶――そうとしか思えなかった。
 気持ちが盛り上がった後の寂しさを抱えて、ぼうっとしたまま外に出ると、二軒隣りのパーラーから増美がふらっと現れ、しかめっ面をしてみせた。
「見捨てて逃げたな、おい」
「逃げなかったから、ここにいるんでしょうが」
「まあ、そうしとこう」
 偉そうに呟くと、増美はほぼ霧雨になった空を見上げた。
「春雷か。 さすがにビビッたわ」
 三咲も並んで、よどんだ灰色の空を見た。 久しぶりに身近に落ちたあの雷が、この十年、山奥の池のように、切り取った狭い空間だけを見続けていた自分の人生を、思わぬ方向に動かしていく兆しのような気がした。



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