表紙

春雷 32


 大学時代の友人、佐藤増美〔さとう ますみ〕とカフェバーを出てきたとき、時間は夜の十一時半を過ぎていた。
 ダイキリをお代わりしたために、増美の目はすわっていて、ろれつがうまく回らなかった。 舗道をジグザグに歩きながら、彼女はバッグを高々と放り上げてぐちった。
「もう三咲連れてくの、やめた! いっつもいい男独り占めじゃんね。 どういうこと?」
 慣れないヒールが足に痛かったので、つい三咲もぶっきらぼうに言い返した。
「嘘つきなの、彼らは。 当たりさわりのなさげな女の名前書くの」
「一緒に表参道歩きたい相手だよ。 ず抜けてるじゃん。 私なんか、一緒にクッキー焼きたいタイプ、とかって。 くすん」
「そっちのほうが普段使いでいいよ」
「なに! なによ、普段使いって!」
 からむヨッパライはうざい。 よりかかってくるのを手で突っぱって防ぎながら、三咲は空を見上げた。
 赤い。 真ん中辺は一応夜空だが、縁が赤らんでいる。 こんな変な空は、東京に来て初めて知った。
「ねえ」
「うっさい」
「ねえさ、都会ってみんな空が赤いの?」
 増美は上目遣いで天を眺め、辛そうに眼をしぱしぱさせた。
「じゃないの? 名古屋しか行ったことないけど、あっちも明るかったよ」
「明るいかじゃなく、赤いかって……」
 あきらめて、三咲は口をつぐんだ。 まっすぐ歩けない相手に何を言っても虚しい。
 増美を支えて駅方向に歩きながら、三咲はふるさとの空を鮮明に思い出していた。 抜けるように晴れた日でもうっすらと灰色がかり、水彩画のにじんだタッチを思わせる空の色を……

 高校二年の夏、三咲の人生に一つの幕が下りた。
 必死に走ったが間に合わなかったあの日、よんしゅの崖下に数人の人が集まり、盛んに見たの見ないのと話し合っていたが、三咲は全身がしびれたようになって、登り口の横にあるステンレスのダストボックスに寄りかかり、ほとんど何も耳に入らない状態になった。
 やがて制服警官が自転車で来て、話し合いの輪に加わった。 そして、目撃者の男性と共に海を覗き、崖の道を登っていったが、結局何も見つけられずに手ぶらで戻ってきた。
 青白い顔でうずくまっている三咲の横を、いかにも船乗りらしい大声が通り過ぎていった。
「だからよ、あの辺に落ちると海ん中はこう岩が込み合っててな、死体はめったに上がらないんだよ」
 死体…… 三咲は固く目をつぶった。 瞼が痙攣して、夕陽の影が細かく震えて映った。



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