表紙

春雷 31


 三咲は焦って身もだえした。 夕立が近づいているから、一刻も早く崖から降りたかった。 一ヶ月近く前、松枝と二度目に会った日の、あの物凄い落雷から、三咲はすっかり雷が怖くなっていた。
「ねえ、もう降りようよ」
「答えろ!」
 強く揺すぶられた。 松枝の目の色は、ただごとではなかった。
「なあ、行こう! 一緒に行くな?」
 もう一もがきして、三咲は自由になった。 稲妻が灰色の空を走り、間を置かずに鈍い音が轟いた。
 その場を逃れたい一心で、三咲はがくがくとうなずいた。
「うん、行く。 さあ早く降りよう」
「本当だな。 本当のほんとだな!」
「うん。 うん! だから早く!」
 ふたりは走り出した。 後ろから、巨大な地ならしローラーを転がすような音が追ってくる。 昔、雷のことを雷獣と言ったそうだが、まさに不気味な生き物に追われているような怖さがあった。
 走りながら、松枝は叫んだ。
「明日の四時! 安森神社で!」
「わかった!」
 本当にわかっていたのだろうか。 三咲の心は恐怖で宙に浮いていた。


 よんしゅの崖の大杉に雷が落ちたと、翌日に聞いた。 昼食の後、西瓜を切り分けながら母が話してくれたのだ。
 それまでもいろんなことを語っていたのだが、ほとんど耳に入らなかった。 ただ雷のエピソードだけは印象に残った。
――何持ってったらいいんだろう。 夏だから服とかは少しでいいけど、貯金通帳は母さんが管理してるし、現金は、と…… ――
 まじで頭が痛くなってきた。 長栄一座の公演は昨日で終わっている。 今日から別の土地へ巡業に行くはずなのだ。 だが、その一行についていけば、駆け落ちなんてすぐばれて、親が捜しに来ちゃうんじゃないだろうか。
 しかも、目立たぬように小さ目のバッグにぎゅうっと詰め込んで裏口から出ようとしたところで、掴まってしまった。
「今日は脱出させないよ。 母さん踊りの講習するって言ってあったでしょう?」
 三咲の口があいた。 そうだ、今日はうちで夏祭り用の講習会があって、母子で接待しなければならないのだ。 すっかり忘れていた!

 それからは時計とにらめっこだった。 四時前にはどんな口実をつけても抜け出さなければならない。 しかし、麦茶を出したりおしぼりを配ったりでチャンスがなかなかなく、人目をかいくぐって小路に出たときは、四時を二十分以上過ぎていた。
 腕時計を気にしながら、三咲は早足になった。 崖のふもとまで十分はかかる。 半時間待たせることになる。 でも、そのぐらいならぎりぎりでなんとか……
 途中から駆け足になった。 すると、前を数人が同じように走っていくのが見えた。 まだ暑さの残る夕方に珍しい、と不思議に思っていると、人々が浜の端に群れて、話し合っていた。
 横を走り抜けるとき、声が聞こえた。
「落ちたんだよ、あそこから。 ほら、あの辺」
「男? 女?」
「わからん。 ちらっと見えただけだから!」

 三咲の心臓がドンと音を立てて鳴った。 それからまた、ドンと、体中の血を集めたように。
 だが、まさかと思った。 考えられない。 そうやにちょっとでも関係あるなんて、そんな馬鹿な。
 もう五メートルで崖下の道に入る、というところで、右手の海面に見えた。 何かが浮かんでいる。 大きな海草のかたまりのように、波に打ち寄せられてただよっている。
 三咲の足が、ゆっくりになった。 岸辺に近づいて目をこらして、ようやく見分けがついた。
 それは、紺色のはっぴだった。 背中に白く大きい字で、『長栄』と染め抜かれていた。



表紙 目次文頭前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送