表紙

春雷 21


 松枝は隣町のエジュケイト・センターという施設に泊りがけでスクーリングに行くそうだった。 だから翌週の月曜から木曜まで芝居を休まなければならない。
「中里が代役やるんだけど、あいつビビリだからなあ、今から心配だ」
「ああ、一緒にトンボの稽古してた人ね」
「そう。 顔は俺よりいいけどな」
「そんなことないよ」
 三咲はむきになった。
「そうやの方がいい男だよ」
「ありがとう! お礼にサインしちゃう」
 冗談めかしながら、松枝は手帳を取り出してページを一枚破り取り、角ばった字で走り書きし始めた。
「これ、俺の泊まってる宿の電話番号。 来週の金曜には帰ってくるから、何か用があったら」
「一週間か……」
 無意識に溜め息が出た。
「試験中じゃなかったら、隣町まで行っちゃうかも」
「そのうち二人で行こうか」
 松枝が思いついて言った。
「あっちには小さいけど遊園地があるからさ」
 楽しそう。 だが相手が松枝だと、こうやって寄り添っているだけで充分楽しい。 それに、門限に厳しい両親に何と言って抜け出そうか。 女の友達と出かけると言っちゃおうかな……。
 根が正直な三咲は、あれこれ考えているうちに不安になってきた。 だからはっきり答えられず、ちょっとにこっとしてごまかした。

 心ゆくまでキスした後、ふたりはぼうっとした眼差しで、水平線に太陽が落ちていくのを眺めた。
 松枝の肩に額をつけ、胴に腕を回し、一心同体のようにぴったり寄り添った姿勢で、三咲が思いついたことをふと口にした。
「太陽って、昇ってる間はあんまり気にしないのに、沈むときは、あ、もうちょっといてほしいなって思わない?」
「希望みたいだな」
 松枝が、思いがけない答えを返した。
「消えそうなとき、一段と大切に思える」

 ふたりを包んでいた柔らかい空気が、すっと冷えた。 現実に引き戻された気がして、三咲は体を起こして座りなおし、意味なく足をぶらぶら動かした。
 希望か…… そういえば、三つか四つのときは、なんにでもなれると思っていた。 宇宙飛行士、お菓子屋さん、魔法使い、夢はいろいろ代わったが、いつかなれると信じて疑わなかった。
 年を重ねるにつれて、夢は薄れていく。 自然に忘れてしまうものもあるし、シャボン玉のように壊れて痛い記憶になるものも……
 微妙に変わったムードを戻そうとして、三咲はわざと陽気に言った。
「ふうん、そうやって詩人なんだね」
 松枝はプッと噴き出した。
「ちょっとクサかったか」
「だいぶね」
 ふたりは肩をぶつけ合って笑った。 だが、途中まで並んで降りた崖の道でも、あの一瞬だけ見せた松枝の重い表情が、三咲の心に影を投げてなかなか消えなかった。


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