表紙

春雷 16


 役者は手が早い、という噂を聞いて、少し不安な中にもちょっぴり期待していたのだが、松枝は二度目のキスが終わると、それ以上は何もせず、顔をずらして頭を抱き、髪をゆっくりと撫でた。
「もう会えないかな」
 えっ。 三咲の胸をおびえに似たものが走り抜けた。
 だが、すぐに松枝は言葉を継いだ。
「試験中はさ」
 ほっとして、三咲は息を吐いた。 まだ胸がざわめいていた。
「そんなことないよ。 すぐ近くにいるんだし、起きてる間ずっと勉強してるわけじゃないし」
「じゃ、なんか合図作ろう」
 合図? 秘密めいたその言葉に、三咲の心臓がぴょんと跳ねた。
 髪に触れていた指が、背中に降りてきた。
「ポケベル持ってる?」
「ううん。 うち持たせてくれないんだ」
「そう……じゃ、電話番号教えて。 二回鳴らして切ったら、一時間以上あいてるから会いたいってことにしよう。
 そんとき三咲も時間があれば、浜に来な。 散歩のふりして十五分待つよ。 来れなければ、一人で帰る」
「うん!」
 行く行く、無理しても絶対行く! 大きくうなずきながら、三咲は松枝のちょっとざらついた頬に唇を押し当てた。

 手を繋いで道を下っているとき、松枝がさりげなく言った。
「目立つことはやめような」
「ん? どういう意味?」
 用心深く足元を見て、彼は慎重にスニーカーを運んでいた。
「俺たち旅役者は流れ歩くから、信用がないんだ。 付き合ってるなんてわかると、邪魔が入る」
「でも私は、そうやを信じてるよ」
 その通りだった。 三咲はこの静かな若者を人として信じていた。 落雷のときの態度、キス以上のものを望まなかった今日、そして今も、三咲に歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれている、身についた自然な思いやりのために。
 そうやは私の騎士〔ナイト〕だ、と、三咲は不意に思った。


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