表紙

春雷 9


 松枝の言ったとおり、浜に降りて走ってくる足音が、一つ、また一つと聞こえ始めた。 二人はこっそり裏口から忍び出て、燃え盛る船へ向かう人々とは反対方向へ急ぎ足で去って行った。

 もう細かい霧雨が時折落ちてくるだけだったが、二人は傘を差し、手をつないだまま歩き続けた。 細い坂道をゆるゆる上がっていくと、左手に三咲の家はある。 そのニ区画手前、小さな雑木林の横で、松枝は立ち止まった。
「じゃ俺、芝居小屋に行くから」
「そうだね」
 言い出しておきながら、松枝はすぐに動かなかった。 忘れ物をしたように、無言で数秒間立っていた。
 三咲の足も、濡れた地面に張り付いたように重かった。 けだるいような、わくわくするような、胸騒ぎに似た気持ちが落ち着かなさを生んでいた。
 ようやく松枝が手を離したとき、三咲の体が自然に前へ出た。 松枝の腕が素早く上がって、待ちかねたように彼女を包んだ。

 言葉にならない言葉というものを、三咲は生まれて初めて見つけた気がした。 薄いシャツを通して伝わってくる体温は、三咲のものよりも少し高く、胸の奥まで灯火のように温めてくれた。
「また会おうね」
「うん、俺はいつでも」
「週三は部活なの。 水金土。 日曜日は」
「日曜は昼夜ニ公演やるんだ。 なかなか抜けられない」
「そうか……じゃ、月曜は?」
「朝から休み」
「やった!」
 無邪気に喜ぶ三咲を、松枝は一段と強く抱きしめた。
「山西さんは学校だろ?」
「三咲って言って」
「三咲ちゃん……」
 やや恥ずかしそうに、松枝は声を落とした。
 顔を持ち上げて、三咲は松枝の顎に尋ねた。
「松枝さん、名前は?」
「創〔そう〕」
「そう」
 とたんに彼は笑い出した。
「それで困るんだ。 呼ばれたんか返事なのかわからなくてさ」
「そうちゃん、じゃなんか違和感あるし、そうちゃ、じゃお茶みたいだし」
 考えこんだ三咲は、やがて目をくるくるさせた。
「そうや、っていう呼び方はどう?」
「はあ」
 頭の上に、創の頬が載った。
「玉屋、みたいだな」
「ああ、花火の」
「でもいいよ。 そう、よりいい」


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