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 お志津 166 その後の事(4)



 貧血で突然倒れるという出来事の後、志津はすぐに健康体に戻り、秋に無事、玉のような男の子を産んだ。
 お産は実家でというのが普通だが、名木あらため峰山孝昭校長への遠慮があり、婚家の居心地がいいこともあって、志津は横浜で出産した。 徳子はもちろん、実家の義春と咲も知らせを聞いて大喜びで、すぐ汽車に乗って駆けつけてきた。
 玄関には、いかにもほっとした様子の敦盛が自ら出迎えた。 咲は気もそぞろに挨拶した後、急いで上に上がって綾野の案内で娘と孫に会いに行った。 だが義春はおよそ二ヶ月ぶりに見る婿から目を離せずに、少し出遅れた。
「おお、立派になったなあ、敦盛くん」
 ずいぶん痩せていた体重を取り戻し、だぶだぶだった服が体に合うようになった敦盛は、照れくさそうな微笑を浮かべた。
「しぃちゃんが……いや、志津がいろいろ気遣ってくれて」
 そう言うと、敦盛は自ら立ち襟シャツの首元を少しくつろげて、義父に火傷の痕を見せた。 義春は目を丸くした。 あんなにでこぼこして赤黒かった皮膚がすっかり白くなり、やや波打っている程度に目立たなくなっていた。
 男二人で奥の間に向かいながら、敦盛は説明した。
「僕は人前に出る仕事ですから、できるだけ目立たないようにと役者の友達から下地を塗るやり方を教わったんです。 そうしたら、ややよくなってきたような気がしたんで志津に話しました。 するとすぐ調べ始めて、ワセリンがよくて日焼けが悪いとわかったんです」
 それから志津は、毎朝敦盛の喉を湯で拭き、ワセリンを服につかないよう薄く塗って、春は絹のマフラーで、夏の間は肌色の薄い包帯で患部を覆い、日光が当たらないようにした。
「志津自身はちっとも気にしていなかったんですよ。 家にいるときは何もつけていませんでしたから。 前に傷がひどかったときは、行長の友達が遊びに来て、首がお岩さんみたいだなんて言ったことがありましたが、志津は平気で、顔は六代目(尾上菊五郎)みたいないい男でしょう? と言い返していましたからね」
 義春は笑いながら、胸がじんとなった。 志津ならそうだろう。 以前から豪快でいながら、自然な思いやりのある子だった。


 二人が産室になった奥の間に入ると、咲が口元を手を当てて泣き崩れ、徳子が背中をさするようにして慰めている光景が目に入った。 義春は驚いて妻のもとに急いだ。
「どうした?」
 咲は真っ赤にうるんだ眼を上げて、手をふるわせながら横を指し示した。
「見てやって。 私はもう胸が一杯で……」
 すぐに義春は、布団に半身を起こして赤子を抱いている志津に視線を移した。 そして口がきけなくなった。
 元気に両手を振り回し、あどけない口元を動かしている新生児は、今を去る二七年前、誇りと嬉しさで満ち溢れてこの腕に抱いた、長男の定昌に生き写しだったのだ。


 こうして、正信〔まさのぶ〕と名づけられた赤子は、生まれながらにして両家の宝となった。 彼は元気ですくすくと育ち、二年半後に涼香〔すずか〕という女の子の頼もしい兄になり、やがて弟二人を従えて新聞紙で折った兜をかぶって庭を走り回る健康そのものの少年に育った。
「正信ちゃんはお猿のように高いところが好きでねえ。 庭の木という木にすべて登ったんですよ」
 徳子が花火大会に招待した咲と、特製のクリームソーダを飲みながら談笑していると、洋装のきれいな婦人があたふたと建て増したテラスにやってきて、咲に会釈しながら徳子に尋ねた。
「芳次郎さん見かけた? どこにもいないんだけど」
「いいえ、また仕事じゃないの?」
 すぐに咲が教えた。
「臼井さんなら、さっき廊下で貴女を探していたわよ」
「あら」
 綾野は大げさにのけぞり、母に軽くぶたれた。
「ほんとにせっかちなんだから。 あなたと待ち合わせなんかするもんじゃないわね。 どこまでいってもすれ違いになりそうだ」
 そこへ汗を拭きながら臼井が現れた。 彼は今では東京支社の総支配人で、ゆくゆくは子会社の社長になりそうなのだが、しばらく東京に行くのをぐずっていて、なぜだろうと疑問に思われていた。
 その理由がわかったのは、春先のことだった。 女学校を好成績で卒業し、花嫁修業をしていた綾野に有利な見合いの話が持ち上がったとき、彼がひどく落ち込んだのだ。
 時代はすでに明治を過ぎ、大正になって、世界大戦が始まっていた。 今度はどちらかというと高みの見物に近かった日本は、物資を外国に売りさばいて好景気に沸いていた。 敦盛の会社もうなぎ昇りに実績を上げて名が知られるようになり、政略結婚の相手として綾野は引っ張りだこだった。
 







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