表紙

 お志津 165 その後の事(3)



 目を開く前から、志津にはわかっていた。 頬や額をそっと撫でている温かい手が誰のものかということが。
 予想通り、瞼を開いて真っ先に視野に飛び込んできた夫の顔は、大きな喜びとかすかな戸惑いでくしゃくしゃになっていた。 彼はそのまま大きな体を倒して志津に覆いかぶさったが、体重をかけないように肘で上体を支えていた。
「ありがとう。 これから暑くなるのに大変だろうけど、体を大事にして乗り切ろう。 な?」
 とっさに志津には何のことかわからなかった。 たぶん貧血で脳に血液が回りきらなかったのだろう。
「え?」
 ぼんやりしたまま尋ね返すと、敦盛の表情がますます崩れて、歓喜の笑顔になった。
「気づいていなかったのかい? おめでただよ。 僕たちは親になるんだ」
 志津は口を開けたまま、敦盛を一秒ほど見つめていた。
 そして、ようやく彼の言葉が頭にしみこんだとたん、飛び上がって首筋に抱きついた。
「ほんと? ねえ、ほんとなの?」
 敦盛は答える前に、座り込んで志津を抱きしめ、子供のように揺すった。 いつもまっすぐな反応を見せる妻が可愛くて、胸が詰まった。
「本当だとも。 丈夫な君がいきなり倒れたんで、みんな震え上がって、すぐ医者を呼んだんだ。 そうしたら太鼓判を押されたよ。 秋口には立派なお子さんが誕生するでしょうと」
 話しているうちに、目頭が熱くなってきた。 粗末な露西亜の収容所に押し込まれ、傷の痛みに耐えながら、故国に帰ったら志津と築く幸福な家庭を夢見て生きがいにしていた日々が、どっと記憶によみがえった。
 志津のほうは、今頃茫然〔ぼうぜん〕としていた。 新婚の忙しさにまぎれて、妊娠の兆しにまったく気づかなかった。 特に吐き気などもなかったし、胃は相変わらず鉄のように丈夫なのだ。
「あぁびっくりした」
 その一言を聞いて、あやうく涙ぐみかけていた敦盛は、どっと笑い出した。


 幸い、志津の貧血は一時的なものだった。 最近食欲が増していたのだが、子供がいることに気づかずに、あまり大食らいではしゅうとめの徳子にあきれられるという心配から、食事量をむしろ減らしていたのが原因だとわかって、誰よりもその徳子がびっくりした。
「私は怖いしゅうとめですか? ちがうでしょう? 私だって身ごもっているときはたくさん食べましたよ。 それでいいの。 いえ、それがいいんです。 志津さんは元気だから、食べ過ぎて太ることもないでしょう」
 そう言って、徳子は医者に勧められた薬だけでなく、肝油を買ってきて志津に飲ませた。 これはサメなどの肝臓の油だから、生臭くてひどい味がする。 でも貧血には効き目抜群のため、志津は毎日鼻をつまんで飲み込んだ。


 鈴鹿家が喜びに沸いている頃、峰山家では正式な養子縁組が決まり、名木孝昭が峰山孝昭となって引っ越してきた。 彼にはさっそく、地元の名門中学校の校長への栄転の話が来ていて、峰山一族は大喜びだった。
「これは本当に、末は大学の学長さんまで行くんじゃないか?」
「ここの子供たちにも箔がつく。 実家のお兄様も鼻が高かろう」
 そう自慢げな作治村長は知らなかったが、養子をしぶしぶ承知した名木の兄からは今でもよく手紙が来て、身の振り方が決まったのだから次は嫁取りだと、弟を悩ませていた。








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