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 お志津  その後の事(2)



 日露戦争の勝利で、西欧は極東の島国を見直したが、同時に警戒心も高まった。 露西亜は敗れたりとはいえ、南下政策をあきらめたわけではなく、いつでも軍艦を出し入れできる不凍港ほしさに日本海周辺を狙っていたし、アメリカもシナへの野望を隠そうとはしなかった。
 日本はといえば、経済の建て直しに本腰を入れていた。 ふたたび貿易は活発になり、敦盛は若社長として臼井や滝内と協力しながら、昔の父に劣らず精力的に飛び回り、新規の仕事を開拓していった。
 初めの半年は、志津も大いに戦力になった。 明るくて活発なので、外人居留地のパーティーに招かれてもまったく引けをとらず、故郷を離れてホームシックになっているイギリスの若奥さんを買い物に連れ出したりするぐらいまで、あっという間に仲良くなった。 また、横浜で英会話教室を開いているミルズ夫人という中年女性とも親しくなり、彼女たちはシヅとうまく発音できずに、シーラという仇名で呼ぶようになった。
「シイラ? あの大きな魚か?」
 日本人が聞くと妙な名前で、初めて聞いたとき敦盛は大笑いした。
「シヅってどうしても言えないの。 シーツとかシットとか、ひどい言葉になるのよ。 だからシーラならまだいいかと思って」
「なるほどね」
 千葉から戻ってきたばかりの敦盛は、くつろぐ暇もなく風呂を使い、急いで着替えて本社へ出向くところだった。 実は家に帰る時間はなかったのだが、どうしても寄って妻の顔を見たかったのだ。
 二人が表門まで出たところへ郵便配達が来た。 礼を言って封書を受け取った敦盛は、裏返して差出人の名前を見て、息を呑んだ。
 異変を悟り、志津も真顔になった。
「よくない知らせ?」
 敦盛は言葉で答える代わりに、封筒を志津に渡した。 そこには走り書きで、鈴鹿誠吾と書かれていた。
 二人はすぐ玄関に引き返して、奥にいた徳子に知らせ、三人で居間に入って、手紙を読んだ。 そして、何とも言いようのない気持ちで、互いに顔を見合わせた。
 誠吾は神戸にいた。 貯金の半ばを持って梨加と家を出た後、名前を変えて外国人居留地の傍に居を構え、財閥の大きな貿易会社の下請けの形で、仲買人をしていたのだ。
 それがもともとの本職だから、誠吾はうまく立ち回って結構稼いでいたらしい。 だが忙しく働く彼に飽きた梨加は、五月のある夜に彼が貸家に戻ってみると、いなくなっていた。 彼が買ってやった服や宝石は、すべて一緒に消えていた。
 近所の人の話では、若くていい身なりの男が、よく送ってきていたらしい。 その男と、梨加は二度目の駆け落ちをしたのだろう。
 徳子は、渡された手紙を元通り畳みながら、感情を抑えた声で言った。
「あなたが生きて戻ってきたことを知っていて、喜んでいるわね」
「ええ」
 敦盛は口重く答えた。
「後は任せたと言われても。 無責任ですよね」
「そう言うしかないんでしょう。 神戸でまあまあ成功しているようだし」
 敦盛に合わせる顔がない、というのが本音だろうと、志津は思った。 長男の死亡を聞いたとき、誠吾は後悔したに違いない。 まさか戦死するとは考えなかったはずだ。 訓練中に戦争が終って、無事戻ってくると信じていたのに、予想外に出征することになって、衝撃で落ち込んだ。 それで、いわば共犯者の梨加と逃げてしまったのだ。
「ともかく、居所がわかってよかった」
 敦盛は何かを振り切るように立ち上がり、これ以上遅くならないうちに会社へ戻ろうとした。 志津もすぐ鞄を持って後を追ったが、玄関口でふっと立ちくらみした。
 敦盛は前にいたため、すぐには気づかなかった。 後ろから徳子が来ていなかったら、志津は生まれて初めて、貧血で倒れて怪我をする破目になったかもしれない。
 とっさに志津を支えた徳子は、足をふんばって敦盛に呼びかけた。
「敦さん、志津さんがたいへん!」
 続いて敦盛がすごい勢いで上がりかまちに飛び上がってくるのがわかり、安心した志津は、そのまま意識を失った。







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