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お志津
1 山道で待つ
「まだ皐月〔さつき〕……おっと違った、今じゃ水無月〔みなづき〕の六月か。 勝手に新暦とやらに改めよってからに、わかりにくくていかん」
高木村〔たかぎむら〕の村長がぶつぶつ呟きながら、村の北東にある鼎山〔かなえやま〕に登ってきた。
日にちを忘れたという割には、すでに衣替えを済ませていて、しゃっきりした絽〔ろ〕の羽織をなびかせ、おろしたてらしい草履〔ぞうり〕と真っ白な足袋〔たび〕を履いている。 雨上がりに晴れ上がった午後なので、湿気で山のところどころに霧が流れ、急ぎ足の村長は懐から手ぬぐいを出し、額に浮いた汗をぬぐった。
そのとき、首筋に何かが入った。
村長は反射的に足を止め、腕を上から回して背筋に入れた。 山道はうっそうとした雑木林を切り開いて作ったもので、現在でも多くの木が頭上に枝を張り出して日当たりを競っている。 風で揺れれば、甲虫でも毛虫でも落ちてきそうな気配だった。
すぐに村長は、緑色のかたまりを背中からつまみ出して、目に近づけた。 さいわい、それは水気たっぷりの毛虫ではなく、咲き終わった柿の花だった。
「おう、今年も元気に実をつけよるかな。 誰も肥えをやらんのに、がんばっとるのう」
ここの山柿は、実が小さいが味は抜群だ。 秋の収穫を楽しみにしている子供も多い。 山の奥にいる猿の群れも、熟れたら押しかけてくるだろう。
「実がなったら、お稲荷さんにお供えしなくちゃな」
廃仏毀釈〔はいぶつきしゃく〕なんぞ、くそくらえだ、と村長は内心で唸った。 村のよりどころで祭りの中心でもある寺や稲荷を粗末にする新政府の役人には、きっと仏罰が下るにちがいない。
ふん、と体を揺すりあげて、また歩き出した村長の麦藁帽子が遠ざかっていくのを、ひときわ高くそびえた柿の木の太い枝の陰から、丸く輝く眼が見送っていた。
その眼の持ち主は、女の子だった。
よく日に焼けて、たすき掛けにした袖からはみ出た腕が黒くなっている。 すりきれかかった藁草履の紐を足首に回して、抜け落ちないように工夫していた。
村長の姿が遠ざかって消えるのを見すましてから、女の子は横に伸びた大枝に乗り移り、具合よく腰掛けた。 そこからだと下生えの雑草に邪魔されずに、盆地にある村を一望できるのだ。
腕と同じように日焼けした足をぶらぶらさせながら、女の子は竹の皮包みを膝に置き、開いて握り飯を掴んでほおばった。
大きな三角むすびの半ばを食べ終えたところで、また人が登ってくるのが見えた。 一瞬立ち上がって幹に隠れかけた娘は、並んで歩いてくる二人連れの一人に見覚えがあったため、安心してまた膝を下ろした。
二人は明らかに学生だった。 同じような服装で、白い絣〔かすり〕の着物と茶色の袴〔はかま〕を着ていた。 女の子が地上十尺(≒三メートル)ほどの高さにいるので、まったく気づかずに歩いていく。 仲良さそうに語り合っているのは、江戸、ではなく東京の築地にある牛鍋屋のことだった。
女の子は、食事の手を止めた。
牛は食べるもんじゃない。 乳をもらい、大事に育てるもんだ。
町者みたいにハイカラぶる幼なじみが急に腹立たしくなり、女の子は袖に手を突っ込んで、さっき投げたのと同じように柿の花を取り出した。 そして、下を通りかかった二人の学生に、一掴み丸ごと投げ落とした。
「げ」
細身のほうが、いきなり降りかかってきた小さな災難にびっくりして、妙な声を上げた。
もう一人の大柄な若者は、花まみれになりながらも動じず、素早く顔を上げて女の子と目を合わせた。
細身の青年も、すぐ気づいて見上げた。 そして、少女を発見すると、目を細めて怒鳴った。
「こら、志津〔しづ〕!」
声は荒いが、顔は笑っている。 志津も歯をむき出して笑い返した。
「おかえり、カンタロー!」
細身の青年は、むっとなった。
「カンタローじゃない、寛太郎〔ひろたろう〕だっ!」
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