表紙

 お志津  その後の事(1)



 翌年早々に行なわれた日比谷大神宮での挙式と、その夜の料亭『あずま』での披露宴は、まだ内心不満をかかえていた志津の母の咲でさえ満足するほどすばらしかった。
 厳かな神前の誓いを終えて花婿と花嫁が本殿を後にして、玉石の上を歩いていたとき、薄く空を覆っていた雲が不意に切れて、一条の光が庭園に差し込んだ。 志津の新しい白無垢が眩いほど輝き、紋付袴の敦盛は振り返ったとたん、出来たてほやほやの妻から目を離せなくなった。 そして、仲人をしてもらった青菱商事の副社長が咳払いするのもかまわず、志津にむかって腕を差し伸べて、しっかり手を握りしめた。
「まだ本当のこととは思えない」
 小声で囁かれて、志津はうっとりと微笑んだ。 彼女もまだ、真の意味での実感が沸かない。 今でも敦盛が戦場で倒れ、誰にもみとられずに死んでいく悪夢を見て、飛び起きることがあった。
 知らぬ間に二人は足を止め、両手を取り合ってたたずんでいた。 仲人夫妻は、もう促すのをあきらめ、微笑して二人を眺めていた。
 しびれを切らして言葉をかけたのは、やはり咲だった。
「さあさあ、これ以上皆様を足止めしては申し訳ないわ。 人力も待っているし」
 小声で注意された二人は、我に返って周囲の客に頭を下げ、早足になったが、それでも握り合った手は離さなかった。
 宴会場でも同じようなことになった。 花婿は客の間を回り、差しつ差されつ酒を酌み交わしながらも、気がつくと花嫁のほうに視線をさまよわせていたし、お色直しをして寒菊の模様の美しい着物に着替えた志津も、しとやかに席に座って仲人夫人と語りつつ、目は新婚の夫から離れなかった。
 徳子夫人はすっかり元気を取り戻して、招待客に挨拶をしてまわっていた。 名主の妻である咲には酒の酌をする習慣はなく、娘の横で静かにしていたが、咎める者はいなかった。
 峰山一族では、村長の作治が詩吟を披露した。 これがなかなか見事な出来で、義春さえ驚いていた。 すると鈴鹿一族も負けじと、中年のまじめそうな顔をした紳士が立ち上がり、咳払いしてから声を張り上げた。
「富士の山からノーエ」
 とたんに荘厳な空気がなごみ、次々と客の声が加わって、一斉に歌いだした。 誰もが知っている歌だったのだ。 それは一家の出身地伊豆の民謡であり、また神奈川で生まれたとも伝えられるノーエ節だった。
 歌が二番に移ると、咲は軽いしかめっ面になった。 お女郎が出てくるからだが、志津は気にしないで軽く手拍子を打っていた。 故郷の村でも、宴会で酒が相当入ってくると男連中は凄い歌を歌い始める。 咲は早々と逃げ出すので知らないだけなのだ。
 幸い、商売関係の人たちと鈴鹿一族、徳子の実家の大宮一族には大酒飲みはいなかった。 峰山の人々も自粛して、披露宴は上品でなごやかな雰囲気のままお開きとなり、咲は大いに満足した。


 客たちが帰るのを見送った敦盛と志津は、最後に仲人夫妻に心から感謝した後、ようやく二人きりになった。 義春と咲は家が遠いので既に帰路に着き、徳子も弟の行長の子守をさせられたとふくれている綾野をなだめすかしながら横浜に帰っていった。 姉弟は大神宮の式には列席できたのだが、披露宴にはまだ早いと言われて、出してもらえなかった。
 残された二人には、料亭の離れにある風雅な一室が待っていた。 渡り廊下を歩いていく途中、敦盛は胸のときめきを押さえられなくなり、いきなり軽々と志津を抱きあげた。
 志津も負けずに両腕を伸ばして、敦盛の首に回すとしがみついた。
「敦盛さんは本当に強い。 高子〔たかいこ〕姫になったようだわ」
「ん?」
「ほら、伊勢物語の」
 敦盛の優しい笑い声が聞こえた。
「ああ、在原業平〔ありわらのなりひら〕の駆け落ち?」
「そう。 読んでは涙をこぼしたものよ。 連れ戻されて、仲を裂かれてしまうなんて」
「千年前でも、男女の気持ちは変わらなかったんだな」
 そうよ、と、志津は心の中で呟いた。 業平は評判の美男子だったらしいが、顔よりむしろ、女に優しかったためにもてたのではないだろうか。 そういう記述を読んだことがある。 勉強嫌いのやんちゃ坊主だったが、一度知り合った女性は決して粗末にしなかったという。
 敦盛さんもそうだ。 いつも私に優しくしてくれた。 だからずっと一緒にいたい。 未来永劫、夫婦でいたい。
 敦盛は、志津を横抱きにしたまま、器用に爪先で襖を開いて、優雅に行灯がほのかな光を投げかける部屋に入った。 そしてそっと妻を布団に下ろした。
「かわいいよ、志津ちゃん」
 枕にほどけかかった黒髪を流して、志津はうるんだ瞳で敦盛を見つめた。 やがて、かすれた声が敦盛の耳に届いた。
「ありがとう、私のところに帰ってきてくれて」







(もう少し続きます)








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