表紙

 お志津 162 山上の万歳



   志津はいったん敦盛から手を離し、前にはなかった皺を刻んだ重々しい顔を見上げた。 そして、わざと軽い調子で言った。
「私達、お互いに焼きもち焼いてる」
 ようやく敦盛の表情がゆるんだ。 そして志津の鼻先を人差し指で小さく叩くと、低い笑い声を上げた。
「そうか。 そうかもしれないな。 じっとしてると寒くなってきた。 さあ、鼎〔かなえ〕山へお礼参りに行くか」
 志津は大きくうなずき、敦盛と再び手を取り合って、坂道をすばしこく登り始めた。


 山道の一番高いところにある大きな柿の木の下で、二人は眼前に広がる冬枯れの景色を眺め、この木に一度は登りたいと願った志津の兄、定昌〔さだまさ〕を想って両手を合わせた。
「お兄ちゃん喜んでくれていると思う。 敦盛さんが大好きだったから」
「いい人だったなあ。 菩薩〔ぼさつ〕さまのような人だった」
 それから二人は幹に寄りかかり、式の打ち合わせを始めた。 敦盛は婚礼と披露宴を分けて考えていて、式は話題性に富んだ人目を引くものにしたいと思っていた。
「目立つといえば、やはり東京市の中心で挙げるのがいい。 しかも厳かで堂々とした式にしたいとなると、日比谷大神宮がいいと思うんだが」
 志津は目を丸くした。 日比谷大神宮での神前結婚というと、十年近く前に高木兼寛男爵が媒酌した婚礼が史上初めてで、ずいぶん騒がれたものだ。 その後、あやかろうという人々が次々と婚礼許可を申し込み、今では超一流の結婚式場として有名だった。
「まさに雲の上の式場ね」
 敦盛は笑顔になった。
「そんなこともないだろうが、値段が一流なのは確かだ」
「お高いの?」
「まあね。 呼ぶ人数を二五人として家族も入れて、三五人までで五○円かかる」
 志津は息を呑んだ。 小学校の先生をしていたときの給料が一ヶ月八円だから、半年分にもなる。
「お式だけで? お酒も何も出ないんでしょう?」
 とうとう敦盛は声を立てて笑い出した。
「君はやりくり上手な立派な奥方になりそうだ。 でも大丈夫だよ。 そのぐらい出しても、もううちはびくともしない。 その後、料亭でやる披露宴でも、女将さんが母の友人だから、よくしてもらえそうだし」
 そちらの話は前からわかっていた。 始終やりとりする手紙で、ほぼ打ち合わせ済みだった。
「会社がずいぶん立ち直ったから、その料亭でこれからの接待をすることが決まったのね。 だから女将さんも喜んで応援してくれると」
「そうなんだ。 父はめったに行かなかったそうだからね」
 明治もそろそろ四○年を迎え、江戸時代を知らない新しい世代が増えてきた。 会社も代替わりが始まっている。 子供のときから外国人に接し、英語とフランス語の文章が読め、その他の外国語も耳学問でけっこう話せるという敦盛は、貿易商にはうってつけだった。
「私もお義母さまに教えていただいて、少しでも敦盛さんの役に立てるようがんばるわ。 お商売は女だからといって気楽に引っ込んでいられるものではないと聞いたから」
「無理しなくても、君はそのままで自然にがんばるよ。 どこへ行っても頼りにされているじゃないか」
 敦盛は明るく言うと、両腕を挙げて大きく伸びをした。
「空が近く見える。 こうやると手が届きそうだ」
 志津も敦盛の横で、思い切り両手を振り上げた。
「万歳! 日本の大勝利を祝って! そしてあなたと私の新しい門出を祝って!」
「万歳!」
 敦盛も再び両手を上げ、腹の底から響く大声を出した。
「志津ちゃんが僕のお嫁になってくれて、万歳〜!!」




【完】


(エピローグに続きます)








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