表紙

 お志津 158 家族の幸福



 さっぱりしていて、以前婚約を破棄されたときの恨みなどまったく見せない志津に、家族は次第に緊張を解き、笑顔まで見せるようになった。 もう大丈夫だと安心して、敦盛は婚礼の話を切り出した。
「一日も早く式を挙げたい。 そう思っているんです。 峰山のご家族にも了解をいただきました。 お母様の具合があまりよくないのは知っていますが……」
「いいえ! こんなに嬉しいことはありませんよ」
 徳子は目を輝かせて膝を乗り出した。 すると着飾って美しかったときの面影が色濃く戻ってきた。
「私も子供たちもお祝い事が大好きなんです。 敦盛の婚礼をどれだけ楽しみにしていたか! 梨加が志津さんにとんでもなく失礼なことを言ったと聞いて、心臓が変になりました。 ただでさえ敦盛の戦死を聞いて打ちのめされているのに、あの娘は」
 絶句した徳子を見て、志津は反射的に手を差し伸べて徳子の手を握った。
「もうお忘れになってください。 奥様の……お義母様のお気持ちとは逆だったとわかって、こんな嬉しいことはありません。 あの人はきっと私のことも邪魔だったんでしょうね」
「私の味方だから。 そうに決まっています」
 綾野が憎らしそうに言って、口をとがらせた。
 そのとき、ただいま! という元気な声が玄関から聞こえてきて、間もなく弟の行長が応接間の戸口に立った。 そして、にっこりして振り向いた志津を見て、息を詰まらせた。
「うわっ」
「こんにちは、行長さん。 私を覚えていますか?」
 行長は一回口をぱくぱくさせ、それからいきなり学帽を取って、響き渡るような声で挨拶した。
「ようこそいらっしゃいました! 生徒一同、御礼を申し上げます!」
 それは学校に偉い来客があったとき、生徒代表が前に出てする挨拶だった。 行長はどうやら優等生で、歓迎の辞を述べたことがあるらしい。 突然現れた兄の婚約者に上がってしまって、とっさに口に出たとんちんかんな言葉に、志津は笑いをこらえて、丁重に挨拶を返した。
「ご丁寧にいたみいります。 今後ともよろしくお願いいたします」
 綾野が吹き出し、徳子もすぐ続いた。 行長少年は真っ赤な顔になって、母と姉をにらんだ。
 敦盛が慰めるように、肩をぽんと叩いた。
「よくできた。 さあ着替えておいで。 志津さんが気を遣って玉チョコをお土産に買ってきたんだ。 おやつにみんなで食べよう」
 少年は再び息を呑んだ。 まだカカオは日本で加工しておらず、チョコレート菓子は大変な高級品だったのだ。
 行長があたふたと部屋を出て廊下を走っていく足音を聞いて、家族は忍び笑いした。 家に明るさが戻り、窓から差し込む冬の日差しでさえ輝きを増したように思われた。









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