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 お志津 157 嫌った理由



 この家の嫁になる身なのだからと遠慮する志津を、家族は半ば強引に応接間へ導いて、下へも置かぬもてなしを始めた。 茶を運んできた使用人は、初めて見る顔で、まだ年端も行かぬ少女だった。
 彼女がぴょこんと頭を下げて去ると、徳子が元気のない声で説明した。
「前に来てもらっていた人たちには、みんな暇を出したんです。 お給金が払いきれなくなって。 あの子はうちの田舎から回してもらいました。 お楽といって、とてもいい子です」
 痛ましい思いで、志津はただうなずくしかできなかった。
 それから徳子は覚悟を決めた様子で、一家に起こった最悪の不祥事を語り出した。


 徳子の夫で敦盛たちの父、そして中堅の貿易会社社長の鈴鹿誠吾が、次第に奇妙になっていったのは、去年の秋ごろからだった。 それまでも仕事であちこち飛び回り、外泊することもあったが、家に帰らないときは必ず言い置いていくか、部下に連絡させていた。
 それなのに無断外泊する日がぽつぽつと出てきて、服装が派手になった。 フランス製のコロンを使いはじめ、娘の綾野に臭いと敬遠された。
 夫が変わった原因を、徳子は初めから察していた。 だが出世した男にありがちな浮気だと我慢して、いつか飽きて元の夫に戻ってくれるだろうと考えていた。
 その期待が失望と怒りに変わったのは、冬が近づいてきたある日のことだった。 いつものように着飾った親戚の梨加がふらりと立ち寄って、いつものごとくチクチクと綾野をいじめているので、我慢できなくなった徳子がたしなめると、梨加は不意に開き直って言ったのだ。
「そんなに偉そうにしていられるのも今のうちですよ、おば様。 もうじきわたくしが、この家の女あるじになるのですからね」


「初めのうち、父はどっちつかずだった」
 徳子が泣きそうになったので、敦盛が口重く後を受け継いだ。
「父は悪い人間ではないんだ。 ただ、あの年でのぼせると、手がつけられなくなるらしい。 梨加がほしいのは父ではなく、社長夫人という肩書きと、贅沢〔ぜいたく〕できる財産なんだが、僕が思い切って父にそう言うと逆上してしまい、ますます事態が悪くなった」
 そうか、だから梨加さんはお父様をけしかけて、敦盛さんを入隊させたんだ──志津は怒りに駆られた。 梨加は自分の邪魔をする目の上のたんこぶを追い払おうとしたのだ。
「梨加さんは美人だから、独り身で財産家の人との縁談もあったでしょうに」
 それが志津には不思議だった。 すると徳子が眉をひそめて、綾野のほうをちらりと見た。 綾野は物怖じせずに母を見返し、はっきりと言った。
「私に遠慮することはないわ、お母様。 梨加さんが中退になってから、学校はその噂で持ちきりだったもの」
 徳子は溜息をついた。
「やはりそうだったの? 人の口に戸は立てられないわねえ」
 声が一段と沈んだ。
「あの娘は、去年の夏に駆け落ち騒ぎを起こしていたんですよ。 相手は避暑に来ていたお公家の坊ちゃんだそうです。 そんなこと、私達もまったく知らなかった」
「私には最高のものがふさわしいの、と、友達に言っていたんですって。 でも相手の方はすぐ連れ戻され、秋にはかねてからの許婚と結婚されました。 それもちょっと薄情だと思うけど」
と、綾野がつぶやくように言った。
 確かにそのとおりだ。 しかし駆け落ちの相手をもの呼ばわりする梨加に、本当の愛はあったのだろうか。 志津にはわからなかった。
「もちろん厳重に口止めされました。 だから私達にも知らされなかったわけだけれど、そんな事件を起こした娘には、上流社会の門は決して開かれません。 いえ、上流どころか普通の家でも嫌がられるでしょう。 だからあの娘は……」
 徳子の言葉が途切れた。 聞けば聞くほど、志津には谷之崎梨加という娘に嫌悪感がつのった。 最初にこの家を訪れたとき、子供達が梨加に見せた激しい反発の理由が、ようやく納得できた。 母を離縁させ、あわよくば子供達も追い出して家を乗っ取ろうとしている相手を、家族が憎むのは当たり前だった。







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