表紙

 お志津 155 必然の結果



 咲がむくれているため、母との別れはいくらかそっけないものになった。 お互いまたすぐ会えるのがわかっているせいもあっただろう。
 志津が悲しくなったのは、使用人たちとの別離だった。 志津が名木と結婚してこれからも実家に留まると信じていた四人は、展開がまったく変わって横浜へ去ってしまうと知って、すっかり落ち込んだ。
 特に直造の嘆きは大きかった。 庭番をまかされているのに何度も図体の大きい敦盛にこっそり入り込まれ、愛犬まで手なずけられていた悔しさもあって、彼はいてもたってもいられないようだった。
「まったく情けない。 おのれが嫌になりました」
「そんなこと言わないで、直造さん。 敦盛さんは戦争でいろんな隠れ方を訓練したのよ。 怒らないであげて」
「怒っちゃいませんよ。 ただ情けなくて。 ポチもポチだ。 あれじゃ番犬の役に立たない」
「敦盛さんは昔から動物に好かれるの。 他の人にはちゃんと吠えるわ」
 くやしまぎれに直造がポチを他所にやってしまっては困る。 志津は一生懸命犬の弁護に回った。 すると敦盛が横から言った。
「申し訳ない。 そんなに腹が立つなら犬は僕が面倒を見ます」
 とたんに直造はしゃきっとなり、精一杯背中を伸ばして敦盛と向き合った。
「結構です。 あの犬はわしが手塩にかけて育てましたんで、誰にも渡す気なんぞありません」
 志津は笑顔になりそうなのをグッと我慢した。 敦盛は明らかに、わざと申し出たにちがいない。 これで愛犬をいけすかない志津の婿から取り返したつもりでいる直造は、前以上にポチを大事にするだろう。
 その傍らで、勝次はしょんぼりしていたし、お若ははっきりと目を赤くしていた。 年上のお蓉は普通にしていようと勤めていたが、肩が落ちているのがわかった。
 四人は家族と同じだ。 志津も寂しかった。 これから鈴鹿家に嫁げば、ここでの暮らしを思い出してもっと寂しくなるだろう。 学校に勤めていたときには、いつでもここに帰れるという安心感があったが……。
 敦盛が、呼びにやった人力車が到着したのをいち早く見つけた。 何しろ背がめっぽう高いから、遠くまで見晴らせるのだ。
 さすがに名木の姿はどこにもなかった。 見送りに出てきてくれるとは、志津も期待していなかった。
「ご挨拶をすませたら、いったん戻ってきます。 名木先生には改めてお詫びさせていただきます」
 そう志津が挨拶すると、義春はうなずき、咲はうなだれた。


 駅に着くと、敦盛はてきぱきと切符を買い、志津の小さな荷物をさっと手に取った。 志津は驚いて取り返そうとした。
「いいのよ、軽いから」
「持ちたいんだ」
 そう答えて、敦盛は白い歯を見せた。
「ちゃんと押さえておかないと不安で」
「嫌ね、戻ろうとするわけないでしょう?」
 志津がふくれてみせると、二人で歩いていた駅廊(プラットホーム)の真ん中に立ち止まって、敦盛は真剣に言った。
「戻りたくなっても不思議はないと思う」
志津はじれったくなって、敦盛の腕を捕らえて子供のように揺さぶった。
「やめて。 私は我がままを通したのよ。 母だってそう思っているわ。 あの顔を見たでしょう?」
 敦盛は少し黙った後、ぽつぽつと話しだした。
「戦場で、ずっと君のことを想っていた。 国へ戻ったら君がいる、君が待っていてくれると思うと、何でも耐えられた」
「敦盛さん……」
 志津はたまらなくなって、彼の腕を抱きこんだ。 人前でいちゃいちゃして、と厳しい視線を投げられても、気にしなかった。
「でも戻ってみれば何もかもが変わってしまっていた。 君の心だけが変わらなかったのが、今でも信じられない気持ちなんだ」
「変わらないものだってある」
 志津は敦盛の肩に額を寄せて目をつぶり、彼の匂いを吸い込んだ。
「私は子供のころ、寛太郎ちゃんの奥さんになると思いこんでいて疑わなかった。 だけどしょっちゅう喧嘩していたし、悔しいこともよくあった。 そこにあなたが現れたとき、こんなに楽でいいのかと驚いたの。 こんなに気持ちよく過ごせる人がいるなんて」
「僕もそう思った」
 敦盛の声が肩からじかに響いてきて、志津の五感をゆすぶった。
「気が合うとはこういうことなんだなと、よく考えた」
 人前もかまわず、敦盛の腕が志津の体に回った。
「だから君にふさわしい、立派な式をしたいんだ。 貿易商の妻なんて口実で、君が一番晴れやかな美しい式にしたい! 一生に一度のことだから」
「ありがとう」
 志津の手も敦盛を固く抱きしめていた。 もうこの人を離さなくていいんだと思うと、彼の思いやりが一段と胸にしみて、全身がふわっと軽くなったような気がした。







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