表紙

 お志津 154 未来の花形



 そこへせかせかとした足音が近づいてきた。 恵庭先生は慌てて辺りを見回し、横に入る廊下があったので飛び込んだ。
 急いでやってきたのは、女中頭のお蓉だった。 姿は前と変わらないものの態度に貫禄のついたお蓉は、襖を細く開けて部屋の中に呼びかけた。
「鈴鹿様、志津お嬢様、お呼びですよ」
「はい」
 楽しそうな答えが返ってきて、すぐ志津が現れた。 お蓉の持つランプの明かりに、振袖を着た志津の花のような姿が照らし出された。
 柱の陰から覗いていた恵庭は、思わず見とれた。 こんなに美しいお志津先生は見たことがない。 上等な着物もさることながら、中から幸福が輝き出ていて、まさに後光が射すようだった。
 すぐ後から続いて現れた鈴鹿という男にも、恵庭は目を見張った。 なんて巨大なのだ! おまけに恵庭のいる方向からは顎から下が大きくただれているのがありありとわかり、狼に喉を食いちぎられたばかりのように見えた。 恵庭は彼のすべてに圧倒され、近づくのも怖い感じがした。
 しかし、お蓉が先導して歩き出すと、志津は鈴鹿敦盛を見上げて微笑み、大きな手にするりと白い手をすべりこませた。 幼なじみの児童のように手をつなぎ合って歩いていく二人を、恵庭は感動しながら黙って見送った。


   結局、敦盛を客たちに紹介しても大した騒ぎは起きなかった。 男達はみんな出来上がってしまっていたし、女達も恵庭同様、敦盛の大きさに圧倒されて、何と言ったらいいかよくわからないままに、お国のためにご苦労様でした、と挨拶するしかなかった。
 やがて彼が口をきくと、穏やかな性格なのがすぐ皆に知られた。 それで、お近づきのしるしに、と徳利〔とっくり〕を持ってくる客がちらほらと現れ、いつの間にか敦盛は酒盛り騒ぎに巻き込まれて、終いには一緒に歌を歌っていた。


志津は淑やかに座っていたものの、内心では楽しんでいた。 再会したときはあんなに侘しい目をしていた敦盛が、今では別人のように明るくなっている。 いや、以前の自分を取り戻して、おおらかに酒を酌み交わしている。 それがどんなに嬉しいか、志津はうまく言い表せないほどだった。
 敦盛が取り戻しに来てくれたのが、何よりも嬉しかった。 奇跡のようにさえ思えた。 何も知らずに名木の妻になり、その後で敦盛が生きていることがわかったら……考えただけで息が苦しくなった。


 翌朝、酔いつぶれた客たちがまだまどろんでいる時間に、敦盛は志津を横浜へ連れていこうとしていた。
「一刻も早く家族に会ってもらって、お互いの誤解を解きたいんです。 式の話も改めてやり直したいし」
「内輪の盃だけにしましょう」
と、志津が提案した。
「こちらは不義理をしたばかりだし、お宅も建て直しの大事な時期だから……」
「いや、それはできない」
 敦盛はきっぱりと言い切った。
「婚礼は貿易商にとって、新しい門出なんだ。 海の向こうの連中は、奥方同伴で舞踏会や晩餐会に出る。 君のようなはつらつとした賢い細君は、商売でもいわば看板になるんだ」
 その言葉を聞いて、咲は一瞬けわしい表情になった。 育ちのいい咲にしてみれば、大事に育てた娘を看板呼ばわりされて、むっとしたのだろう。
 義春は敦盛の立場をわかっていたし、娘の気持ちも察していた。 だから敦盛に賛成した。
「わたしも協力しよう。 君に任せるよ」
「ありがとうございます!」
 感激して、敦盛はもうじき義父になる義春に、深く頭を下げた。  







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