表紙

 お志津 153 恋が実って



「はじめ、露西亜〔ろしあ〕兵とまちがえられた?」
 ぼそぼそと低い声が答えた。
「そうなんだ。 この身長だろう? 日本軍の捕虜になって、軍服を盗んで逃げてきたと思われた」
 小さく吹き出す声が聞こえ、次いで衣ずれの音がした。
「あなたに合う軍服が簡単に見つかると思ったのかしら」
「まったくだ」
 お志津先生だ── 恵庭は足を止め、立ち往生した。 立ち聞きは嫌だが、どちらの方角へ行けばいいのかわからない。 それに、志津を探しに来たので目的は達したといってよかった。
「……君が庭に出てきてくれてよかった。 式が始まったら座敷に乗り込むつもりだったんだ。 それぐらいやけっぱちになっていた」
 一瞬の静けさの後、志津は上ずった声で言った。
「もしそうしたら、大変なことになっていたわね。 私は驚いて気絶などしないもの。 きっとなりふり構わず、あなたに飛びついていたわ。 式はめちゃめちゃになり、名木先生の面目はつぶれ、あなたはお客をなぎ倒して私をさらっていったでしょう」
「そうなったら、君はどうした?」
 答えは間髪を入れずに戻ってきた。
「逃げ道を教えたわ」
 また大きく衣ずれの音がした。 強く抱きついたにちがいなかった。
「こんな日が来るなんて思ってなかった。 あなたがこうして戻ってくるなんて。 お兄ちゃんと一緒に空へ行ってしまったと思ってた……」
「こんな姿になってしまったが」
「どこが? この目も鼻も口も、敦盛さんのままじゃない? この火傷は勲章。 あなたは私の英雄なの」
 ああ、なんて幸せそうな声なんだろう。
 恵庭の鼻がツンと湿ってきた。 憧れの的の名木を失って傷痍〔しょうい〕軍人の妻になる志津が、複雑な気持ちでいるのではないかと心配したが、事実はまったく逆だった。
「誰も呼びに来ないわね」
「そうだな。 僕達のことを忘れてしまったんじゃないか?」
「あの人たちには名木先生が大事なのよ。 きっと養子縁組を祝って酒盛りしてるわ。 この村の酒盛りは、つぶれるまでやめないのがしきたりなの」
 今度は二人の小さな笑い声が重なって聞こえた。
「先生には申し訳ないことをした」
「今は腹を立てていらっしゃるでしょうけど、そのうちよかったとお思いになるわ」
 志津は動じなかった。
「先生はどう見ても、私にはもったいない。 先生だけを見て心から尽くしたいと思っているひとが、沢山いるんだから」
「でもその人たちは、君じゃない」
 敦盛が感慨深げにつぶやいた。
「志津さんは一人しかいない。 そして君は僕のものだ」







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