表紙

 お志津 150 受け取らず



 敦盛は、ぎゅっと志津の手を握ったまま、家庭の事情を説明しはじめた。
「戦争が終った日に、父はこれでようやく大々的に貿易を再開できると喜んでいたそうです。 でもさっそく都心へ取引の相談に出かけて、それきり戻ってきませんでした。 後でわかったことですが、貯金も大半は持ち出していました。 さすがに会社の資金と家族の生活費は残していきましたが」
 義春はあきれはてていた。
「いったいお父上は何を考えていたのか」
「考えてはいません」
 敦盛は重い口調で言った。
「駆け落ちしただけです」


 とたんに志津は、ひらめくように悟った。 鈴鹿家を訪れたときの奇妙な違和感に、ようやくぴたりと合う理由が見つかった気がした。
「……もしかして、相手は谷之崎さん?」
 敦盛は一瞬驚いたように目を上げ、それから唇を噛みしめてうなずいた。
「妹はだいぶ前から気づいていたようだ。 弟がどこまでわかっていたか知らないが、あんなに梨加を嫌っていたのは、ちゃんとした理由があってのことだった。 母は……」
 敦盛の口元が辛そうにゆがんだ。
「我慢していた。 そのうち目が覚めると思っていた」
 では敦盛自身も感づいていたはずた。 彼は昔から勘がよかったと、志津は揺れる心で思った。
「会社がひどいことにならないで、よかったですね」
 咲が慰めの言葉を口にした。 敦盛は頭を下げて黙礼を返し、また志津に視線を戻した。
「社員の人たちが懸命に守り立ててくれていた。 あんないい部下に恵まれて、父は果報者だったのに」
 電話で話した秘書の人もしっかりしていたっけ──鈴鹿誠吾は有能な社長で、会社を立派に切り回していたのだろう。 だから部下も優秀なのだ。 そんな地位も才能もある男性を家庭から去らせ、会社まで捨てさせた谷之崎梨加の妖しい魅力は、女である志津には感じられなかった。 でも、周りが見えなくなるほど人を好きになる気持ちは、よくわかった。
「あなたが生きて戻ってきて、ご家族は喜ばれたでしょうね」
 志津が囁くと、敦盛は泣き笑いに近い表情を浮かべた。
「妹と弟は飛びついてぶらさがってきたよ。 母は腰を抜かしたが、それでもしがみついてきた。 それから妹は、志津さんに悪いことをしたと言って泣いて泣いて」
「綾野さんが悪いわけじゃないわ」
「本当にそう思うのかい?」
 逆に問い返されて、志津は驚いた。
「ええ、もちろん」
「じゃ、なぜ綾野の手紙に返事をくれなかった?」
 ふと咲が身じろぎした。 具合悪そうに視線をさまよわせていた後、覚悟を決めて言い出した。
「志津は……その子は手紙を読んでいないんですよ。 私が渡しませんでしたから」
「お母様!」
 志津は思わず、悲鳴に近い声を上げてしまった。







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